Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書7章14~20節

聖書の黙想と適用 ミカ書7章14~20節(新共同訳 旧約p.1458)

(1) 驚くべき御業を示される主なる神(14~17節)

 預言者ミカは「あなたの杖をもって御自分の民を牧してください」(14節)と主なる神に祈りを献げた。そして、そこに「彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み」(14節)という説明が加えられている。かつてモーセは死の直前にイスラエルの民に対し、主なる神が彼らを肥沃な地に住まわせて下さるという祝福の言葉を与えた(申命記33章28節)。この約束はカナン征服の時、ヨルダン川の東側のバシャンとギレアドを得たことによって実現した(14節)。そこは水と草が豊かにあり、家畜を飼うのに適した地であった。ミカは主なる神の恵みがその時のように再び臨むことを願った。人を救い、回復することがお出来になるのは主なる神だけである。
 また、その時、主なる神はイスラエルが「エジプトの地を出たときのように」驚くべき御業を示される(15節)。出エジプトにおいてイスラエルを救われたように、主なる神はバビロン捕囚からもイスラエルを救われた。その救いの御業を主なる神は今も私達に対して続けておられる。
 更に、イスラエルの滅亡を喜んだ「諸国の民」は、イスラエルの民がバビロンから帰還するのを見て、「口に手を当てて黙し/耳は聞く力を失う」(16節)。そればかりか、イスラエルに屈服し、「蛇のように/地を這うもののように塵をなめ」(17節)るようになる(イザヤ書49章23節)。その時、彼らは「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」(詩編126編2節)と告白し、「主の御前におののき」、主なる神を「畏れ敬う」ようになる(17節)。主なる神の御業は、人間の考えを超越し、驚きで満ちている。

(2) 主なる神のような方はおられない(18~20節)

 ミカは「あなたのような神がほかにあろうか」(18節)と主なる神を讃美する。神の民イスラエルは主なる神を裏切った。主なる神を忘れ、その代わりに偶像に仕えた。数えきれないほどの罪を犯し、主なる神を怒らせた。それにもかかわらず、主なる神は「咎を除き、罪を赦される」(18節)方である。ニネベに対して主なる神が憐れみを示された時、預言者ヨナが不満に思ったように、主なる神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」(ヨナ書4章2節)である。私達は主なる神の測り知れない恵みに躓いてはならない。
 勿論、主なる神は義なる方でもあり、イスラエルの罪悪に対して裁きを下された。しかし、彼らを完全に滅ぼすことはせず、「御自分の嗣業の民の残りの者」に「いつまでも怒りを保たれること」はなさらなかった(18節)。主なる神がイスラエルに憐れみを示されたのは、彼らが十分に悔い改めたからではない。主なる神が「慈しみを喜ばれる」(18節)方だからである。主なる神の怒りが終わるのは、人間の行為ではなく、主なる神の溢れる恵みと愛による。
 主なる神はイスラエルの「咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(19節)。主なる神の記憶力は人間とは比較にならない。人間は忘れ易く、記憶力に限界がある。しかし、主なる神はイスラエルが犯した全ての罪を覚えておられる。にもかかわらず、ご自身がアブラハムとヤコブに約束されたことを破棄することなく(創世記12章3節、28章14~15節)、「まこと」と「慈しみ」をもってそれを果たされる(20節)。イスラエルの救いはアブラハムの契約に基礎がある。
 主なる神は、アブラハムに約束されたことを、信仰によるアブラハムの子孫である私達に対しても為して下さる。御子イエス・キリストは、ミカの預言の通り、ベツレヘムでお生まれになった(5章2節、ルカによる福音書2章6節)。そして、イエス・キリストの十字架によって主なる神の「恵みと真理」(ヨハネによる福音書1章17節)が明らかに示された。主なる神は、イエス・キリストの十字架を通して全ての罪を贖い、信じる者に永遠の命を与えて下さる。
 主なる神のような方は他におられない。「ミカ」という名前は「誰が主のようであるか」という意味を持っている。それ故、彼が「あなたのような神がほかにあろうか」という讃美をもって預言を終えたことには大きな意味がある。主なる神はこの世の何ものとも比較出来ない素晴らしい方である。御子イエス・キリストを通して主なる神を知った者は、その驚くべき愛と恵みの深さに感謝と讃美を献げずにはいられない。