Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書のメッセージ ローマの信徒への手紙3章21~31節

聖書のメッセージ ローマの信徒への手紙3章21~31節(新共同訳 新約p.277)

 人が主なる神の御前に立つためには義とされなければならない。しかし、パウロは、ユダヤ人も異邦人も皆罪人であり、主なる神の御前にあって正しい者は一人もいないと宣言する。全ての人は罪を犯し、自分の行いや努力によっては主なる神の栄光を受けられなくなっている(23節)。また、律法は私達が犯した罪に気付かせてはくれるが、私達を罪から救うことは出来ない。では、人が救いを得て、義と認められるためにはどうしたらいいのだろうか。
 救いの道は「罪を償う供え物」となられたイエス・キリストを信じることだけであるとパウロは強調する(25節)。主なる神は、イエス・キリストをこの世に送られ、十字架で私達の代わりに罪に対する刑罰を引き受けさせた。イエス・キリストは、私達を救うために主なる神が払われた代価、即ち贖いであった。私達は、イエス・キリストによる贖いの業を通してのみ罪を赦され(24節)、真の救いを得ることが出来る。これは主なる神の恵みである。それ故、誰も自分を誇ることが出来ない(27節)。
 イエス・キリストを自分の救い主として信じることの第一歩は、自分が罪人であること、自分には自分を救う力がないことを認め、謙って主なる神の御前に出て行くことである。イエス・キリストが宣教活動を開始される前に、バプテスマのヨハネは荒野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイによる福音書3章2節)と宣べ伝えた。ヨハネは、悔い改める者にバプテスマを授けながら、主の道を備えた。
 私達は、他人の罪にはすぐ気付き、それを指摘することには熱心である。しかし、自分の罪には気付かず、指摘されてもそれを認めようとはしない。イエス・キリストは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(ルカによる福音書5章31節)と言われた。自分には罪に打ち勝つ力がないことを認めなければ、私達は罪から自由になることは出来ない。
 罪に打ち勝つことが出来るのは、罪のないイエス・キリストが十字架で流された尊い血潮だけである。イエス・キリストを主と信じ、その御名に依り頼もう。イエス・キリストの恵みによって、無償で救いを受けたことを覚えて感謝しよう。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソの信徒への手紙1章7節)。