Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルツ記1章15~22節

聖書の黙想と適用 ルツ記1章15~22節(新共同訳 旧約p.422)

(1) あなたの神はわたしの神(14~17節)

 ナオミはルツに、相嫁のオルパのように「自分の民、自分の神のもと帰」るように勧めた(14節)。自分と一緒にベツレヘムに行ったところで、寡婦となったナオミには何一つ保障がなく、苦しい生活が待っている。しかも、ルツはモアブの女性である(4節)。イスラエルで在留異国人として生活するよりも、自分の同胞のもとに戻って、再出発した方が苦労は少ない。ルツにとってはそれが良い道であるとナオミは考えた。
 だが、ルツはナオミに「わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」(16節)と述べ、ナオミがどこに行こうとも一緒に行き、ナオミと同じように主なる神に仕えるという意志を表明した。更にルツは「あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです」(17節)と願った。ルツの決心は堅く、ナオミはそれ以上ルツを説得することが出来なかった(18節)。死ぬまで一緒にいるというルツの決心にナオミは心を動かされ、2人は一緒にベツレヘムに向かった(19節)。
 ルツがどのような経緯で主なる神を信じるようになったのかは聖書に記されていない。しかし、一つ確かなのは、イスラエルの民の家に嫁いだことによって彼女は主なる神に出会ったということである。夫を若くして亡くし、寡婦となったにもかかわらず、ルツは、主なる神を「わたしの神」と呼び、姑のナオミと共に生きることを決心した。そして、そのことによって彼女は想像を越えた主なる神の恵みへと導かれていく。主なる神は、私達が信仰を持ち、それによりご自身の民になることを望んでおられる。そして、ご自身に従う者に主なる神は豊かな恵みによって答えて下さる。

(2) ナオミの帰郷(19~22節)

 ナオミとルツは旅を続け、ベツレヘムに到着した。夫と2人の息子が死に(5節)、モアブ人の嫁と一緒にみすぼらしい姿で戻って来たナオミのことは、ベツレヘムの人々の間で噂になった(19節)。女性達は彼女に「ナオミさんではありませんか」と声をかけた。
 しかし、ナオミの置かれていた状況は、「ナオミ」――「私の喜び」という意味――という名前からは懸け離れたものであった。そのため彼女は「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」(20節)と言った。そして、「出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです」と述べ、「主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされた」と告白した(21節)。ナオミは、飢饉が国を襲ったため、主なる神から与えられた土地を離れて、異邦の地モアブに移り住んだ。その結果、夫や息子と死別し、全てを失い、痛みを抱えて、ベツレヘムに戻ることになった。
 だが、ナオミとルツがベツレヘムに着いたのは、「大麦の刈り入れの始まるころ」(22節)であった。ベツレヘムの町には収穫の喜びと期待があった。そして、その中でナオミとルツも主なる神の顧みを受けることになる。主なる神はベツレヘムに戻って来たナオミとルツのために大きな恵みを備えておられた。
 主なる神は苦しみの中にあってもご自身に依り頼む者を導き、祝福される。目の前の問題ばかりを見つめ、自分で解決しようとするのではなく、主なる神を仰ぎ見よう。主なる神は全てを御手の中で治めておられる。そして、苦しみを通して私達を恵みへと招いて下さる。苦しみがなければ、私達は、主なる神が備えて下さっている恵みに頼らず、自分の力で道を切り開こうとする。イエス・キリストがたとえ話の中で語られた放蕩息子のように(ルカによる福音書15章17節)。苦しみは私達を、自分で思い描いた小さな未来を越えて、主なる神の未来へと進み出させる。主なる神は、「うつろにして帰らせた」ナオミも、自分の民族と神々から離れてベツレヘムにやって来たルツも、収穫の喜びをもって迎えて下さる。主なる神の恵みの回復はもう既に始まっていた。