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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルツ記2章1~7節

聖書の黙想と適用 ルツ記2章1~7節(新共同訳 旧約pp.422-423)

(1) 畑に行って、落ち穂を拾うルツ(1~4節)

 ナオミとルツは、ベツレヘムに戻って来たものの、生計を立てるあては全くなかった。ベツレヘムは刈り入れの時期を迎えていたが(1章22節)、彼女達には刈り入れる畑がなかった。貧しい2人は行き詰まっていた。
 しかし、ルツは信仰によって一歩前に進む。ナオミに「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」(2節)と言った。ルツの言葉は、貧しい者、寄留者、孤児、寡婦に配慮することを定めた律法の規定を背景としている(レビ記19章9~10節、申命記24章19節)。ルツは、慣れない異国の地にあって姑と自分が食べる必要最低限の食料を得るために、畑に行くことを願った。
 明日のことは私達には分からない。かといって心配ばかりしていてはいつまでも前に進めない。主なる神は、私達に必要なものをご存知であり(ルカによる福音書12章30節)、私達を支えて下さる(詩編55編23節)。だから、不満や不安を振り切って、自分に与えられた場所で最善を尽くそう。信仰とは、何もせずにじっと座って主なる神が天からパンを降らせて下さるのを待つことではない。エジプトに奴隷として売られたヨセフも、自分の兄弟を恨み続けるのでも、明日の心配をして落ち込むのでも、自暴自棄になるのでもなく、主人の家で誠実に仕えた。そして、そのようなヨセフを主なる神は祝福された(創世記39章25節)。御心に適うことを行うために最善を尽くす者に、主なる神は道を開いて下さり、良いものを備えて下さる。
 信仰によって出て行ったルツにも、主なる神は答えて下さった。ルツが行ったのは「エリメレクの一族のボアズが所有する畑地」(3節)であった。ボアズは「ナオミの夫エリメレクの一族」で、その中でも「有力な親戚」であった(1節)。また、「士師が世を治めていたころ」(1章1節)、イスラエルは霊的にも道徳的にも堕落し、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21章25節)。しかし、ボアズの畑では「主があなたたちと共におられますように」と農夫達を祝福し、農夫達から「主があなたを祝福してくださいますように」と祝福を祈られる信仰が生きていた(4節)。
 ルツは畑の所有者が亡き舅の親族であることを最初から知っていたわけではない。ただ食料を得る機会が与えられたことを感謝し、朝早くから「刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾」(3節)った。しかし、主なる神はそのようなルツをボアズとの出会いへと導かれた。「たまたま」(3節)のように見えるが、それが主なる神の摂理であったことがやがて皆の目に明らかになる。主なる神が介入された特別な恵みが始まったのである。

(2) ルツに目を留めるボアズ(5~7節)

 ボアズはルツに目を留め、農夫を監督している召し使いの一人に「そこの若い女は誰の娘か」(5節)と尋ねた。見知らぬ女性が働いているのを見て、気になったのかも知れない。召し使いはルツが「モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘」(6節)であることをボアズに告げた。
 モアブとイスラエルと元々親戚関係にあったが――モアブの祖はアブラハムの甥のロト(創世記19章32~37節)――、長い間対立関係が続いていた。モアブ人であるということは、イスラエルの民にとって悪感情を引き起こす可能性があった。
 その一方で、ボアズは、ルツが自分の親族のエリメレクの家族であること、また姑のナオミとの生活のために「朝から今までずっと立ち通しで働いて」(7節)いたことを知った。この後の展開を見ると、ボアズがルツに対して好意を施していることが分かる。人が人に出会い、心が動き、好意を抱くことは自然な現象であるが、主なる神はそのような感情をも用いてご自身の民を導かれる。
 主なる神の恵みはボアズを通してルツに注がれた。主なる神の恵みは特別な奇蹟が起こらなければ味わえないのではない。主なる神は人を通してご自身の恵みの御業を行われる。私達が日常生活の中で主なる神に従って一歩進み出る時、主なる神は、今私達がしていることを通して、私達の周りにいる人に恵みの業を為して下さる。