Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルツ記2章8~16節

聖書の黙想と適用 ルツ記2章8~16節(新共同訳 旧約pp.423-424)

(1) 恵みの御業を進められる主なる神(8~13節)

 ボアズは、ルツがどのような女性で、何故自分の畑で落ち穂拾いをしているのかを聞くと、彼女に厚意を示した。まずボアズはルツに「よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい」(8節)と言った。ここから追い出されることがなく、安定した収入を得られることは、ルツに大きな安心を与えたに違いない。そればかりか、ボアズは「若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい」(9節)とルツに最大限の配慮をした。
 ボアズからの思いもよらぬ厚意にルツは驚いた。ルツは「顔を地につけ、ひれ伏して」、「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは。なぜですか」(10節)と理由を尋ねた。ルツは、ボアズのことについて詳しく知らず、何故彼が自分に親切にしてくれるのか分からなかった。それでも彼の温かい配慮はルツの心に染みたに違いない。
 それに対し、ボアズは、ルツについて人々から聞いたことを明らかにした(11節)。その上で彼は「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」(12節)とルツのために祈った。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど」(11節)、ルツの姿にボアズは心を打たれ、彼女のために出来る限りのことをした。
 ルツは、自分に示された厚意の理由を聞いて、「あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」(13節)とボアズに感謝の気持ちを伝えた。
 姑のナオミに従うことによって恵みを施したルツは、ボアズから恵みと慰めを受けた。ルツは、夫との死別という悲しみを通り、姑のナオミと共に険しい旅に耐えてベツレヘムに着き、落ち穂拾いという最も生活が苦しい人が行うことを始めた。それに対し、主なる神はルツのためにボアズを備えられた。ルツがボアズの恵みに与ったのは、ルツが主なる神を信じて人生の大きな決断を下し、姑のために誠実に生きてきたからである。彼女の状況はそのことによってすぐに好転したわけではない。しかし、主なる神は、人と人を繋げ、その関係を通して、恵みの御業を着実に進められる。
 信仰によって生きる時、困難や試練に直面することがある。そこでは忍耐が求められる。しかし、誰も見ていなくても、主なる神は全てを見ておられる。主なる神は私達一人一人を造られた方なので、私達について知らないこと、見ていないことは何一つない。どんなに辛く苦しくても、主なる神に従って生きようとすることを諦めてはならない。勿論、私達は罪深く、弱い者なので、自分の力だけでそれを成し遂げることは出来ない。しかし、主なる神が力を与えて、それを為し得るようにして下さる。ご自身に依り頼む者に、主なる神は必ず助けを与え、良いもので満たして下さる。

(2) 主なる神の御心を行うボアズ(14~16節)

 ボアズは、ルツに声をかけて、食事に招いた(14節)。そればかりか、召し使いの若者に命じて、ルツが麦束の間でも穂を拾えるよう配慮した(15節)。更に、ルツのために「刈り取った束から穂を抜いて落としておく」よう、彼らに命じた(16節)。ボアズの配慮によってルツは沢山落ち穂を拾い集めることが出来た。
 イエス・キリストは、山上の説教で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイによる福音書6章3節)と言われた。ボアズはまさにこの教えを実践し、ルツが気付かないところで彼女のために心を配った。ボアズとルツの会話、またルツに対するボアズの配慮は、二人がどのような心を持った人なのかを示している。
 イスラエルの人々が「主の目に悪とされることを行」(士師記21章25節)っていた時代にあって、ボアズは、異邦人の寡婦であったルツを共同体の中に受け入れ、その必要が満たされるよう配慮した。彼は貧しい者や寄留者に関する律法の規定を忠実に守ろうとした(レビ記19章9~10節)。
 主なる神は、私達が「主よ、主よ」と言うだけではなく、実生活の中でご自身の御心を行うことを求めておられる(マタイによる福音書7章21節)。そして、御心が行われている所に主なる神は祝福を注いで下さる。イエス・キリストを信じ、救われることは、新しいスタートを切ることである。罪を悔い改めた徴税人ザアカイにイエス・キリストは「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言された(ルカによる福音書19章8~9節)。主なる神は、私達が新しく生まれた者として、主なる神に従う生活を始めることを願っておられ、またそれを御覧になっている。