Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルツ記2章17~23節

聖書の黙想と適用 ルツ記2章17~23節(新共同訳 旧約p.424)

(1) ナオミとルツに恵みを注ぐ主なる神(17~20節)

 ルツが沢山の食料を携えて畑から帰ると(17節)、ナオミはルツが「拾い集めてきたものに目をみはった」(18節)。そのため、ルツに「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか」と尋ねた。そして、「あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」(19節)と述べ、ルツが誰の畑で落ち穂を拾い集めたのかに関心を示した。
 それに対し、ルツは「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました」と答えた(19節)。ルツの言葉を聞いて、ナオミはボアズについて「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です」(20節)と伝えた。「家を絶やさないようにする責任のある人」とは、貧しくなったために所有地を売ったり、奴隷として身売りした人がいた時、「買い戻しの権利を保有」し、またその義務を負っている近親者のことである(レビ記25章24~25節、47~48節)。夫と息子に先立たれたナオミにとって(1章5節)、ルツから聞いた知らせは彼女に希望を抱かせるものであった。ナオミは、ルツとボアズの関係が発展していくことを期待し、ルツを通して主なる神の慈しみが下されることを願った。
 ベツレヘムに帰って来た当初、ナオミは自分のことを「マラ」と呼ぶように言った。しかし、主なる神はルツを通してナオミに愛を注がれた。そして、そのルツはボアズを通して恵みを経験した。自分の畑に落ち穂を拾うためにやって来た異邦人の寡婦に、ボアズは厚意を示した。それも一度だけではなく、「刈り入れが全部済むまで」(21節)である。主なる神は、ボアズを通して愛と憐れみをもってナオミとルツに日々の糧を与え、大きな喜びをもたらされた。
 私達も主なる神の恵みを受けた者として互いに仕え合おう。主なる神は、御子イエス・キリストをこの世に送って下さり、私達に仕えて下さった。そして、イエス・キリストは、弟子達に「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネによる福音書13章14節)、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカによる福音書22章26節)と言われるなど、人に仕えることを繰り返し教えられた。教会は、イエス・キリストの愛の故に、互いに仕え合い、弱い者に共に仕えていく者の群れである。イエス・キリストの愛をもって隣人に恵みをもたらす時、主なる神は教会の働きを祝福して下さる。そして、そのことを通して更にイエス・キリストが伝えられていく。

(2) ボアズの畑から離れない(21~23節)

 ボアズがルツに「うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい」(21節)と言ったという話は、ナオミを更に喜ばせた。ボアズの畑に留まっていれば、ルツは「よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもない」(22節)からである。実際、ルツは「大麦と小麦の刈り入れが終わるまで」ボアズの畑に留まり続けた(23節)。
 主なる神は、買い戻しの権利に関する律法に基づき、ボアズを通してナオミとルツを祝福することを計画しておられた。ナオミの家族は、飢饉が国を襲ったため、代々相続してきた土地を捨て、モアブに身を避けた。その後、彼女は悲しみと恥の中でベツレヘムに帰還した。そして、帰ってからも生きていく十分な術のない絶望の中にいた。しかし、そのようなナオミを主なる神はお見捨てにはならなかった。ナオミとルツには主なる神にあって希望がまだ残っていた。
 ナオミを通して私達も苦しみの中を歩む者に対する主なる神の愛を知ることが出来る。ナオミの家族の回復はナオミ個人の出来事で終わるものではない。律法の定める買い戻しが行われる時に神の民にもたらされる恵みを証ししている。その愛と恵みは私達にとっても希望である。
 イエス・キリストは、「神の身分でありながら」、御座を捨てて、天から降られた。そして、人間に仕える「僕の身分」になって下さった(フィリピの信徒の手紙2章6~7節)。そればかりか、イエス・キリストは、罪と死の奴隷であった私達を「買い戻す」ために、十字架でご自身の命をもって贖いの代価を払って下さった。この方から離れない時、私達にも豊かな恵みが臨む。