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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルツ記3章1~13節

聖書の黙想と適用 ルツ記3章1~13節(新共同訳 旧約pp.424-425)

(1) ナオミの言葉に従うルツ(1~7節)

 ナオミはルツが「幸せになる落ち着き先を探して」(1節)きた。そして、ルツがボアズとどのような関係を立てていくべきかを考えた。ボアズが家を絶やさない責任を果たすためには、彼に律法の履行を求めるだけでは足りなかった。ルツに対するボアズ自身の思いを確認した上で、彼に家を絶やさない責任を果たしてくれるよう願い、手続きを進めなければならなかった。ボアズがルツを愛し、自分から進んでその責任を引き受けてくれることが、2人にとって幸いになることをナオミはよく分かっていた。そのためにナオミは、ルツがどのようにそれを伝えるべきか、何をするべきかを話した(2~4節)。
「あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばに行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」(4節)というナオミの指示は、ボアズに自分の身を預けるという意味である。ボアズが死別した夫に代わり、エリメレクの土地を受け継ぐのに相応しい人間であるということは、ルツにも分かったであろう。しかし、これを実行するのは非常に危険なことでもあった。ルツが財産目当てでボアズに近づいたと誤解されたり、淫らな女という烙印を押される可能性もあった。そのようなリスクのあることをナオミが敢えてルツにさせたのは、ルツのこともボアズのことも信頼していたからである。
 一方、ルツは「言われるとおりにいたします」(5節)と言って、姑の言葉の通りに実行することを決意した。かつてルツは「自分の里に帰りなさい」(1章8節)というナオミの勧めを受け入れず、一緒にベツレヘムに付いて来た。しかし、ここでは異を唱えることはなかった。ナオミがルツを信頼していたように、ルツもナオミを信頼して、その言葉に従っている(6~7節)。
 イエス・キリストは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)と祈られ、天の父の御心に十字架にまで従われた。天の父は、そのようなイエス・キリストを復活させ、「高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」(フィリピの信徒への手紙2章9節)なった。ルツの従順もこの後主なる神によって用いられている。自分で納得出来、可能な範囲のことだけを行う従順は、それほど難しいことではないかも知れない。しかし、自分には難しいと思えることであっても、主なる神に従う時、私達は主なる神の祝福を見ることが出来る。

(2) 正しいことを正しい方法で行おうとするボアズ(8~13節)

 ボアズは、夜半に女性が自分の足もとで寝ているのを見つけて驚き(8節)、「お前は誰だ」(9節)と尋ねた。それに対し、ルツは「わたしは、あなたのはしためルツです」と告げ、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」(9節)と願った。この言葉は、ボアズがルツに「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」(2章12節)と語ったことと繋がっている。ルツは、ボアズを信頼し、彼の祝福の言葉に基づいて、彼に慈しみを求めた。
 ボアズはルツの言葉の意味をすぐに理解した。その上で、「どうかあなたに主の祝福があるように」(10節)という祈りと共に、「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします」(11節)と言って、ルツを安心させた。また、ルツが誤解されかねない状況にあることを配慮し、彼女に「この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」(11節)と告げた。ボアズは、ルツが賢く、貞淑で、誠実な人であることを、これまで見守ってきた中でよく分かっていた(10節)。
 その一方で、ボアズは「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」(9節)というルツの言葉に対し、「家を絶やさぬ責任」に関して彼以上に近い親戚がいるので(12節)、まずその人に尋ねるとルツに伝えた。その上で、彼が責任を果たすことを好まない場合には、自分が責任を果たすことを告げた(13節)。もしボアズがその親戚に尋ねないでルツと結婚し、その後彼が自分こそエリメレクの土地を相続すべき人間であると主張したならば、親族間の関係は大いに拗れたに違いない。そうならないためにボアズは、主なる神と共同体の前で、誰が見ても正当な手順を踏もうとした。
 イエス・キリストヨハネからバプテスマを受けられる時、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイによる福音書3章15節)と言われた。この世では正しく生きることよりも、隠し、偽り、欺くことが賢いと思われることがある。しかし、神の民はそのような時代にあっても正しく生きることを諦めてはならない。主なる神は生きておられる。人を騙すことは出来ても、主なる神を騙すことは出来ない。私達自身でさえ気付いていないことまで、主なる神は全てご存知である。辛いことがあっても、困難に直面しても、人からどのように思われても、主なる神を畏れ、その御前に相応しいことを行おう。従順ときよさ、そして正しさを追い求めていこう。そして、この世が与えることの出来ない主なる神の恵みに与ろう。