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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙8章18~30節

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙8章18~30節(新共同訳 新約pp.284-285)

(1) 被造物の呻き(18~21節)

 パウロは3つの呻きについて論じている。第一に、「滅びへの隷属」(21節)の下にある被造物が呻いている。被造物は今「虚無に服して」(20節)おり、苦しみと束縛から自分で抜け出すことは出来ない。そのため、「神の子たちの現れる」(19節)ことによって、「滅びへの束縛から解放され」、「神の子供たちの栄光に輝く自由にあずか」(21節)るのを待ち望んでいる。この自由は、主なる神の言葉であり、真理であられるイエス・キリストによってのみ得ることが出来る(ヨハネによる福音書8章32節)。イエス・キリストは、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」(ルカによる福音書4章18節)するために来られた。私達人間がイエス・キリストによって罪と死の奴隷である状態から解放される時、人間と連帯関係にある被造物も新しくされる。

(2) イエス・キリストを信じる者の呻き(22~25節)

 第二に、イエス・キリストを信じて救われた者も、様々な苦難に直面する中で、体の全き贖いを待ち望んで呻いている。イエス・キリストを通して「“霊”の初穂をいただい」(23節)たものの、罪と死の力からの完全な解放にはまだ到っていないからである。私達はイエス・キリストを受け入れた瞬間から救われるが、救いの完成はイエス・キリストの再臨の時に成し遂げられる。キリスト者は、「神の子とされること、つまり、体の贖われること」(23節)のために、イエス・キリストの再臨を慕い求めるべきである。体の贖いが完成される時、神の子としての権利を完全に行使出来るようになる。
 主なる神は真実であられる。この方の約束を与えられた私達は、「忍耐して待ち望む」(25節)べきである。キリスト者に与えられる主なる神の恵みの一つは希望である(コリントの信徒への手紙一13章13節)。信仰は「見えない事実を確認」(ヘブライ人への手紙11章1節)することであり、希望はその見えない事実を尊び、期待することである。この世において苦難を避けることは出来ない。しかし、イエス・キリストによって私達は希望を持ち続けることが出来る。約束の成就が遅れているように見えても、後の日に与えられる贖いと完全な復活に希望を抱きつつ、忍耐して待ち続けよう。私達の救いを現在進行形に変える秘訣は、その日に対する望みである。

(3) 聖霊の呻き(26~28節)

 第三に、救われたいと願う呻きよりも切実なのは、被造物や神の子供達の全き回復のために切に祈られる聖霊の呻きである。私達には「どう祈るべきか」分からない時が多々ある(26節)。そのような時、聖霊は、私達の内で、私達の傍で、私達の祈りを助け、導いて下さる。主なる神の真実の約束にもかかわらず、心を揺り動かされる「弱いわたしたちを助け」るために、「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(26節)。まさしく聖霊は「弁護者」(ヨハネによる福音書14章26節)、即ち「私達の傍で助けて下さる方」と呼ばれるに相応しい方である。
 聖霊の呻きは主なる神の御心通りの祈りである(27節)。イエス・キリストも、神の右の座にあって私達のために執り成し、祈って下さっている。聖霊の呻きとイエス・キリストの執り成しに基づいて、主なる神は「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」に対し、「万事が益となるように共に働」いて下さる(28節)。この「万事」には、良いことも悪いことも、幸も不幸も、出会いも別れも、そして生と死も含まれている。文字通り私達に降りかかる全てのことである。主なる神には失敗はない。

(4) 主なる神の救いのご計画(29~30節)

 主なる神の救いのご計画は偶然ではなく、初めから定められた順序に従って行われる。救いの御業の第一段階は「前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)ることである。予定説は主なる神がこの世界を創造される前から既に私達のことを全て知っておられるということを出発点としている。
 その上で、第二段階は、主なる神が「あらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えにな」(30節)ることである。主なる神は、私達を贖うための青写真を作っておられた。その目的は私達を御子イエス・キリストと栄光の姿に変えることである。本来人間は主なる神の似姿に造られた(創世記1章27節)。しかし、アダムの堕罪によってそれを失ってしまった。これはイエス・キリストにあってのみ回復することが出来る。その時、私達は「神の本性にあずからせていただ」き、私達の内に主なる神の聖いご性質が現れる(ペトロの手紙二1章4~7節)。