読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記5章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記5章1~10節(新共同訳 旧約pp.218-219)

(1) 汚れた者を分離せよ(1~4節)

 主なる神はモーセに「重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出」(2節)すよう命じられた。共同体の中に汚れた者がいる時、そのことによって共同体全体が汚れるからである。主なる神は、イスラエルの共同体の「ただ中に住んで」(3節)おられたので、彼らに聖さを願われた。それに対し、イスラエルの人々は主なる神がモーセに言われた通りに実行した(4節)。
 罪は《伝染する》という特徴を持っている。共同体の中に罪を犯している人や正しくない思いや考えを持っている人がいる時、共同体全体が影響を受けることになる。最初は大したことないと思っていても、徐々に感覚が麻痺していき、最終的には破滅に到る。イエス・キリストは私達に悔い改めなければ滅びると警告された(ルカによる福音書13章3節、5節)。罪は容認すべきものではなく、遮断すべきものである。日常生活の中で罪を犯してしまった時、イエス・キリストの御前に出て告白しよう。そして、人情や空気に引きずられることなく、罪を捨て去り、遠ざけよう。神の民はどれほど小さな罪であっても容認してはならない。

(2) 犯した罪の告白とそれに対する賠償(5~10節)

 主なる神は、共同体の中で他の人に罪を犯した人がいた時、その人は「犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに五分の一を追加して損害を受けた人に支払」(7節)わなければならないと命じられた。聖く歩む人生は、自分の罪を正直に認め、告白することから始まる。そして、罪の悔い改めは言葉だけで終わってはならない。責任を負って賠償するなど、具体的な行動として示される必要がある。
 また、罪に対する「賠償を継ぐべき近親がいない場合」(8節)にも、賠償の責務が免除されるわけではなかった。その時には「その賠償は主のものとなり、祭司が受け取る」(8節)と主なる神は規定された。「男であれ、女であれ、何か人が罪を犯すこと」は、被害を受けた人に対してだけでなく、主なる神に対して罪を犯すことだからである(6節)。この他にも「罪の贖いの儀式をする贖罪の雄羊」(8節)をはじめ、イスラエルの人々が「聖なる献げ物として祭司のもとに携えて来」たものは、「すべて祭司のものとな」(9節)った。
 罪の解決のためには、それに相当する代価を必ず支払わなければならない。主なる神は完全な代価を要求される。イエス・キリストは「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(ルカによる福音書1章77節)ためにこの世に来られたが、私達の全ての罪に対する代価を十字架の死をもって支払って下さった。主なる神は、私達の全ての罪をイエス・キリストの上に負わせ、それを十字架において処罰された。このイエス・キリストを主として、救い主として受け入れる時、主なる神は私達を受け入れて下さる。
 また、イエス・キリストを主と告白した後も私達は罪を犯してしまう。その時、私達が「自分の罪を公に言い表」し、悔い改めるなら、「神は真実で正しい方」なので、「罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて」(ヨハネの手紙一1章9節)下さる。だから、日々イエス・キリストの御前に出て、罪の告白と悔い改めをしよう。主を信頼し、主が自分を治めて下さることを求めていこう。