Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記5章11~31節

聖書の黙想と適用 民数記5章11~31節(新共同訳 旧約pp.219-220)

(1) 主なる神の御前で隠し事は出来ない(11~21節)

 姦淫は夫婦関係を破壊する行為である。配偶者の不倫を疑い始めると、夫婦の信頼関係は忽ち崩れてしまう。しかも、それは結婚している男女の間の道徳的問題に留まらない。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)と言われ、結婚制度を定められた主なる神に対する罪でもあった。また、姦淫は共同体の聖さを壊す社会的問題でもある。
 主なる神は、「ある人の妻が心迷い、夫を欺き、別の男と性的関係を持った」(12~13節)のではないかと夫が疑いを抱き、嫉妬に駆られた時(14節)、問題を解決する方法をイスラエルの人々に示された。それが「嫉妬した場合の献げ物、すなわち罪の判定のための献げ物」(15節)である。妻の不倫が疑われる場合、夫は彼女を祭司のところに連れて行き、「嫉妬した場合の献げ物」を主なる神に献げなければならなかった(15節)。
 その上で、祭司は彼女を臨在の幕屋で「主の御前に立たせ」(16節)た。そして、「聖水を土の器に入れ、幕屋の床にある塵を取ってその水に入れ」(17節)た。それから祭司は、その女の「髪をほどき」(18節)、彼女に「夫ある身でありながら、心迷い、身を汚し、夫以外の男に体を許した」(20節)ことがあるならば、自分の身に主なる神の呪いが下ること、そうでないならば「呪いを免れる」ことを誓わせ(19節)、その水を飲ませた。
「主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ」(21節)るという呪いは、男女の不倫関係のように隠れた所で犯した罪であっても、主なる神は全てご存知であり、それを正しく裁かれることを示している。イエス・キリストは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(ルカによる福音書6章43~44節)と言われた。姦淫を夫に一時的に隠すことは出来ても、永遠に隠すことは出来ない。ましてや主なる神は決して騙されない。主なる神の御前では全てのことは明らかである。

(2) 主なる神に裁きを委ねる(22~31節)

 主なる神は、家庭の平和が壊れる危機に直面した時、私達がその問題をご自身にもとに持っていくことを願われる。
 主なる神が定められた「呪いをくだす水」(24節)についての規定は、夫から見れば、自分だけで判断して妻を罪に定めるのではなく、主なる神に判断をお委ねすることを意味した。それ故、訴える夫自身も主なる神の御前にきよくなくてはならない。実際、律法では「妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し」た男、姦淫した男にも主なる神の裁きが下ることが記されている(申命記22章13~25節)。
 また、妻から見れば、呪いの誓いに対して「アーメン、アーメン」と言う中で(22節)、自分を振り返り、主なる神の御前に立つことになる。その一方で、この規定は、夫から不当に疑われ、害を被ることから妻を保護するものでもあった。また、「女が身を汚しておらず、清い」場合、主なる神は彼女に「子を宿す」という祝福を与えて下さる(28節)。何の罪もないことが明らかになったならば、夫はそれ以上妻を疑ってはならない。寧ろ自分の疑いによって妻に恥を味わわせてしまったことを謝り、妻をより一層愛さなければならない。
 夫も妻も感情的になったり、偏見をもって判断せず、完全に主なる神の裁きに委ねることを求められる。神の民は、主なる神に対しても、配偶者に対してもいつも真実でなければならない。家庭のきよさを守ることは一方だけの責任ではない。夫も妻も、共に主なる神の御前にある者として、主なる神を第一とし、互いに愛し、赦し合う努力が必要である。