Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記6章1~12節

聖書の黙想と適用 民数記6章1~12節(新共同訳 旧約pp.220-221)

(1) ナジル人の誓願(1~5節)

 ナジル人は「男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身し」(2節)た者である。誓願の理由は、主なる神に対する愛であり、感謝である。イスラエルの民は誰でもナジル人となることが出来た。主なる神は全ての民がご自身を愛し、感謝することを願われた。
 誓願期間中、ナジル人には厳格に守らなければならないことがあった。彼ら彼女らは「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならな」(3節)かった。聖書においては飲酒そのものが全面的に禁止されているわけではない。実際、イエス・キリストは徴税人や罪人と一緒に飲み食いをされた(ルカによる福音書7章34節)。その一方で、ぶどう酒や強い酒は、理性を麻痺させ、正しい判断やそれに従うことを難しくさせ、それを飲んだ人を支配する危険性を持っている(箴言20章1節、エフェソの信徒への手紙5章18節)。ナジル人は、ただ主なる神だけに頼るために、ぶどうの木の全ての産物を遠ざけるよう命じられた。
 また、ナジル人は、「頭にかみそりを当ててはなら」ず、「髪は長く伸ばしてお」かなければならなかった(5節)。日々伸びる髪の毛は力と生命力を象徴した。それを主なる神が与えて下さっていること、自分の頭の上に主なる神がおられることを表すために、ナジル人は髪の毛を剃ってはならなかった。「主に献身している」「聖なる者」(5節)として、彼ら彼女らはたとえ自分の体であっても思い通りにすることは出来なかった。
 ナジル人の誓願の目的は禁欲それ自体にあるのではない。主なる神に対して自分を献げることにある。それは神の民イスラエルに自分が主なる神に属するものとされていることを自覚させるものであった。キリスト者にもこのような姿勢が求められている。この世にありながらも主なる神だけを畏れ、霊と心と体を主なる神に献げ、イエス・キリストの福音を証しする者として生きていこう。

(2) 汚れに対する対処(6~12節)

 誓願期間中、ナジル人はあらゆる汚れたものから遠ざからなければならなかった。彼ら彼女らは「死体に近づい」たり、「彼らに触れてはならな」かった(6~7節)。たとえ「父母、兄弟姉妹が死んだ」(7節)としても、死体に接触してはならなかった。主なる神は命の源であられるのに対し、死は、アダムの罪の結果、主なる神の呪いとして人類にもたらされたものだからである。ナジル人は「主にささげられた聖なる者」(8節)なので、「汚れを受けて」(7節)主なる神の聖さを損なってはならなかった。主なる神に献身した者は、家族よりも主なる神を愛することを求められた。
 また、「人が思いがけず、突然自分のそばで死ん」(9節)だ場合のように、ナジル人が自分の意志とは関係なく不可抗力的に汚れることがある。その時には「最初の誓願期間は無効」(12節)となり、もう一度最初から誓願を始めなければならなかった。今まで伸ばしていた髪の毛を「七日目の清めの日」に剃り(9節)、「八日目」に「二羽の山鳩ないし家鳩」(10節)を生贄として献げ、「その人が負った罪を清める贖いの儀式を行」(11節)い、「改めて、主に献身してナジル人となる期間を定め」(12節)た。
 主なる神は、ご自分の民が御前に聖く生き、その言葉に従って生きることを望まれる。聖くあることは受動的な姿勢ではなく、細心の注意を払い、積極的に自分を汚れから守る行為である。「わたしの床に入りなさい」と迫るポティファルの妻をヨセフが遠ざけたように(創世記39章7~12節)、罪の誘惑から逃げ、遠ざかることも必要である。それでも私達は主なる神の聖さを損なうことをしてしまうことがある。その時には「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)であるイエス・キリストに立ち帰り、罪を悔い改めよう。