Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記6章13~21節

聖書の黙想と適用 民数記6章13~21節(新共同訳 旧約p.221)

(1) 誓願期間の満了における感謝の献げ物(13~15節)

 ナジル人は、誓願の「期間が満ちた日」に「臨在の幕屋の入り口」に行き(13節)、主なる神に「焼き尽くす献げ物として傷のない一歳の雄羊一匹」、「贖罪の献げ物として傷のない一歳の雌羊一匹」、「和解の献げ物として傷のない雄羊一匹」、「穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物」をささげた(14~15節)。
 このことはナジル人が誓願を果たすことが出来たのは主なる神の恵みによることを示している。キリスト者も主なる神の御前で信仰の決心をすることがある。しかし、信仰の決心を守ることと共に大切なのは、それが出来るよう支え、導いて下さる主なる神の恵みに感謝することである。イエス・キリストが言われたように、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカによる福音書18章27節)からである。謙遜と感謝の心をもって主なる神の御前に立たなければならない。

(2) 日常生活への復帰(16~21節)

 誓願の期間が終わると、ナジル人は、「献身のしるし」としてそれまで伸ばしていた「髪をそり」、「それを取って和解の献げ物を焼く火に燃や」した(18節)。誓願の痕跡を消すのは、自分の献身と節制を人に誇るようなことがあってはならないからである。高慢の要因となり得るものを、ナジル人は主なる神に献げた。
 また、誓願の期間の満了の際、祭司が祭儀に立ち会い、ナジル人から献げ物を受け取り、それを「主の御前に携えて行」った(16~20節)。このことは、ナジル人の誓願が個人的な敬虔ではなく、共同体の中で行われる業であることを示している。ナジル人は家族や祭司の協力があって誓願を果たすことが出来る。キリスト者も、独りではなく、共同体の中で、共同体と共に信仰生活を送る。その時、良い実がもたらされる。
 その一方で、主なる神が「ナジル人であるゆえに主にささげるべき献げ物のほかに、その人になおささげる力があれば、それに加えることができる」(21節)と語られたように、ナジル人としての献身は、強制ではなく、個人の意志による。強いられてではなく、自ら進んで献身する者を主なる神は用いて下さる。
 誓願の期間を終えたナジル人は、それまで禁じられていたぶどう酒を再び飲むことが出来る(20節)。しかし、一定期間主なる神に献身したその人は、日常生活に戻っても、以前とは違う人生を生きるようになるだろう。主なる神を更に愛し、主なる神の御心に敏感になることだろう。
 キリスト者も、神の民として、イエス・キリストの弟子として、主なる神の御心を行うことを期待されている。感謝の心で礼拝を献げ、日常生活において主なる神の言葉に従っていこう。罪の誘惑に打ち勝ち、「地の塩」「世の光」として天の父に栄光を帰そう(マタイによる福音書5章13~16節)。勿論、それはとても難しいことである。忍耐と謙遜が必要であり、困難を伴うこともある。しかし、信仰によって主なる神と共に歩む時、私達の心は喜びと平安で満たされる。