Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記7章1~9節

聖書の黙想と適用 民数記7章1~9節(新共同訳 旧約p.222)

(1) 主なる神に属するものの聖別(1~3節)

 主なる神に属するものは聖別しなければならない。モーセは「幕屋を建て終わった日」に、「幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具」に「油を注いで聖別した」(1節)。油を注ぐことは、それを主なる神のものとして聖別することを意味し、それによって主なる神による権威が付与された(出エジプト記40章13~15節参照)。このような目的に用いられる油は聖霊聖霊の働きを象徴する。主なる神から委ねられた働きは全て聖霊の助けと導きによってのみ果たすことが出来る(ルカによる福音書1章35節、使徒言行録1章8節、コリントの信徒への手紙一2章4~13節、ヨハネの手紙一2章27節)。
 一方、「イスラエルの指導者、すなわち、家系の長」も、民を代表して「六台の牛車と十二頭の雄牛」を主なる神に献げた(2~3節)。彼らは、「部族の指導者」で、人口調査の折、「登録に当たった者たち」であった(2節)。また、彼らの献げ物は幕屋や祭具類を運搬するのに必要な牛車とそれを引く牛であった。イスラエルにおいて民の指導者は、自らの地位と能力をもって主なる神に栄光を帰し、神の民に益をもたらす者であった。彼らが指導者として召されたのは、自分が中心になり、他の人々から献げ物を受けるためではなく、主なる神に仕え、献げ物をするためであった。指導者がまず主なる神に献身する時、共同体の必要は不足なく豊かに満たされる。

(2) 部族の指導者が献げたものの分配(4~9節)

 族長の指導者が共同で準備した献げ物は、主なる神の共同体のために用いられた。主なる神はモーセに(4節)、部族の指導者が献げた牛車と雄牛を、「臨在の幕屋の作業に用い、それぞれの作業の分担に応じて、それをレビ人に与え」るよう命じた(5節)。指導者の献げ物が幕屋を管理するレビ人に分配されることによって、幕屋の運搬に必要な資材は満たされた。主なる神は、働きを委ねられるだけでなく、それを成し遂げる力も与えて下さる(列王記上3章6~13節)。
 とはいえ、その献げ物は、ケハトの氏族、ゲルションの氏族、メラリの氏族に均等に配分されたわけではない。献げ物を分ける時、夫々の働きの内容に従って分配された。その結果、メラリの氏族が最も多く受けた(8節)必要なかったからである。一方、ケハトの氏族には牛車も雄牛も与えられなかった。何故なら、彼らの職務は「聖なるものを肩に担いで運ぶこと」(9節)であったため、牛車と雄牛はからである。
 主なる神は私達一人一人に必要な恵みを十分に与えて下さる。人間の目には不公平に見える分配を通しても、主なる神の御心がなされ、主なる神の公正が現れる。私達の健康、時間、お金、能力などは究極的に主なる神のものであることを覚え(ローマの信徒への手紙11章36節)、主なる神の栄光のためにそれらを用いる者となろう。