Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記8章14~26節

聖書の黙想と適用 民数記8章14~26節(新共同訳 旧約pp.226-227)

(1) 主なる神のものとされたレビ人(14~19節)

 レビ人は「イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして」主なる神が「受け取った者」である(16節、18節)。それ故「彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている」(16節)と主なる神は言われた。これは主なる神が「エジプトの国ですべての初子を打ったとき」、「イスラエルの人々のうちに生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ」救われた恵みに対する応答である(17節)。
 レビ人はイスラエルの民を代表する。しかし、彼らは支配層ではなく、奉仕する者であった。レビ人の任務は「臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行」(19節)うことである。主なる神は、レビ族の中でアロンとその子らを祭司とし、臨在の幕屋で仕えさせた。レビ族のそれ以外の人々は「アロンとその子らに属する者」(19節)とされ、祭儀が滞りなく行われるよう祭司を助けた。奉仕の内容は区別されていたが、主なる神に仕えるという点では両者は本質的に変わらなかった。イスラエルの人々は、アロンとレビ人を通して主なる神に焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物をささげた。
 レビ人が主なる神とイスラエルの民の間で仕えたように、イエス・キリストは主なる神と全ての人間の仲介者となり、執り成して下さった。主なる神は人間がご自身と交わりを持てるよう、御子イエス・キリストをこの世に送って下さった。そして、イエス・キリストは、自ら完全な生贄となられ、十字架の死によって罪の贖いを成し遂げられた。
 その結果、私達はイエス・キリストを主と信じることによって主なる神の御前に出ることが出来るようになった。キリスト者は、主なる神のものとされた者として、祭司とレビ人がイスラエルの人々のために執り成しをしたように、まだ救われていない人を主なる神のもとへ導くよう命じられている。

(2) レビ人の聖別(20~22節)

 臨在の幕屋はイスラエルが主なる神に会見する場所である。レビ人は、アロンとその子らと共に、「イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからない」(19節)よう、幕屋で主なる神に仕えた。そして、そのためにモーセとアロンと「イスラエルの人々の共同体全体」は、「主がレビ人についてモーセに命じられたとおり」(20節、22節)、レビ人を聖別した。
 レビ人はイスラエルを神の民としてきよく立たせるために、主なる神に正しく仕えなければならなかった。主なる神との正しい関係が断たれたら、イスラエルは生き延びることが出来ない。レビ人がイスラエルの民を助け、民がレビ人を支えることによって、イスラエルは神の民として相応しく生きていけるようになる。
 とはいえ、レビ人自身も罪人である。罪を犯した人間は決して主なる神の御前に立つことが出来ない。それ故、臨在の幕屋で仕えるためには、まず自らの「汚れを清め、衣服を水洗いし」、「清めのために罪を贖う儀式を行」(21節)う必要があった。そのことによって初めて彼らは「臨在の幕屋に入り、アロンとその子らのもとで」「イスラエルの人々のために」作業に従事することが出来た(22節)。
 一方、レビ人とは異なり、イエス・キリストは何の罪も見出せない方である(ルカによる福音書23章4節、41節)。それ故、自分の罪を清める必要もない。レビ人には罪を犯す度に罪の贖いのための生贄が必要であったが、罪のないイエス・キリストは「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げ」(ヘブライ人への手紙9章12節)、人類を救われた。イエス・キリストが十字架でご自分を生贄として献げられた時、神殿の至聖所と聖所を仕切っていた垂れ幕が上から下に避け(マルコによる福音書15章38節)、誰でも主なる神の御前に出て行ける道が開かれた。
 イエス・キリストは、動物の生贄とは違い、人間の罪を完全に清めて下さる方である。それ故、キリスト者は動物の生贄を献げる必要がない。「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)であるイエス・キリストだけが、私達の救い主であり、力であり、命であられる。キリスト者は、イエス・キリストにあって罪を離れ、この世に主なる神の栄光を照らさなければならない。

(3) レビ人の任期(23~26節)

 レビ人は主なる神に献げられた者であるが、いつまでも奉仕をするわけではなかった。主なる神はモーセに(23節)、レビ人が臨在の幕屋で務めに就くことが出来るのは、「二十五歳以上」(24節)で「五十歳」(25節)までであると期間を定められた。主なる神のために十分奉仕が出来る時に後回しにするなら、いつの間にか年老いてしまう。そうならないために、人生の最も良い時期を主なる神に献げよう。主なる神のために働きたいと思っても、出来なくなる時がやって来る。
 その一方で、信仰生活に引退はない。レビ人は、「五十歳に達し」たら、幕屋における「務めから身をひかねばならない」が(25節)、定年後も「臨在の幕屋で同族の者が警護の任に当たるのを助ける」(26節)ことは出来た。どんなに年を取って体力が衰えても、神の民の一員であること、イエス・キリストを頭とする教会という体の一部であることに変わりはない。