Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記9章15~23節

聖書の黙想と適用 民数記9章15~23節(新共同訳 旧約p.228)

(1) 雲が幕屋を覆う(15~17節)

「幕屋を建てた日」、雲が幕屋を覆った(15節)。また、夜にはその雲が幕屋の上にあって「燃える火のように見えた」(15節、16節)。主なる神は、臨在の幕屋を雲が覆うことによって、イスラエルの民と共にいることを目に見える形で示された。そして、この雲はイスラエルの民を導いた。雲が幕屋の上に留まれば、イスラエルの民は宿営し、雲が幕屋を離れれば、彼らは旅立った(17節)。主なる神の臨在がある限り、彼らは安全であった。
 主なる神はイスラエルの民に「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」(出エジプト記23章20節)と言われた。荒れ野には道がなく、地図もなかった。しかし、主なる神がイスラエルの民に先立って進まれた。道のない荒れ野において主なる神ご自身が道となり、地図となられた。だから、主なる神に全面的に依り頼むならば、イスラエルの民は自分達が正しく進んでいるかどうか心配する必要はなかった。
 キリスト者も主なる神と共にいる時に真の平安がある。主なる神は、イエス・キリストを信じる者に聖霊を送って下さり(ルカによる福音書24章49節、ヨハネによる福音書14章26節、使徒言行録1章4~5節)、世の終わりまでいつも共にいて下さる(マタイによる福音書28章20節)。それ故、キリスト者は、いかなる状況にあっても絶望する必要がなく、恵みの中で大胆に歩むことが出来る。日々主なる神と共に歩み、主なる神の臨在を体験しながら生きていこう。

(2) 主なる神の命令に従う(18~23節)

 イスラエルの民は、生存の危機と隣り合わせの荒れ野の旅において「主の命令によって」(18節、19節、20節、23節)旅立ち、また宿営した。主なる神はイスラエルを「夕方から朝までしかとどまら」(21節)せなかったり、「二日」だけ留まらせることもあれば、「一か月でも、何日でも」(22節)留まらせることもあった。しかし、雲が幕屋の上に「長い日数」(19節)留まり続けた時も、「わずかな日数しかとどまらない」(20節)時も、イスラエルの民は主なる神の命令に従った。それはイスラエルに対する従順の訓練であった。
 イスラエルの民が依り頼まなければならないのは、自分の主観や知恵や経験ではなく、主なる神の言葉であった。主なる神が行くことを許可されなければ、その道がどれだけ良く見えても進んではならなかった。逆に、主なる神が行くように命じられれば、その道がどれだけ困難に見えても進まなければならなかった。
 生存に欠かせないものが絶対的に不足した荒れ野にも主なる神はおられる。主なる神が共にいて下さり、主なる神との交わりを持つことが出来るなら、荒れ野の旅にも希望が存在する。40年に亘る荒れ野の旅にイスラエルが耐えることが出来たのは、主なる神が彼らを愛し、彼らの中にいて語り、導かれたからである。
 主なる神はキリスト者聖霊が内に住まわれる「神の神殿」として下さった(コリントの信徒への手紙一3章16節)。聖霊の働きによって聖書と祈りを通して主なる神をより深く知ることが出来るのは、キリスト者にとって大きな恵みである。どのような苦しみの中にあっても、自分がどこに向かっているのか分からない時でも、失望せず主なる神に依り頼み、主なる神の言葉に従おう。主なる神は私達に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」(ヘブライ人への手紙13章5節)と言われた。イエス・キリストは私達に「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われた。主なる神は私達の歩みを祝福し、恵みの御業を見させて下さる。