Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記11章1~9節

聖書の黙想と適用 民数記11章1~9節(新共同訳 旧約pp.230-231)

(1) 民の不満と主なる神の憤り(1~3節)

 イスラエルの民は、シナイ山を出発し、パランの荒れ野に向かって「三日の道のりを進んだ」(10章33節)が、その後主なる神に不満を言い始めた(1節)。勿論、荒れ野は楽な場所では決してない。不便さや飢え渇きが付き物である。それでも、約束の地カナンという目的地に到るために、彼らは荒れ野を必ず通らなければならなかった。荒れ野の旅は主なる神による訓練の時でもあった。しかし、苦しい状況が一日、二日と続く中で、彼らはそれまで主なる神から受けた恵みや約束を忘れ、公然と呟くようになった。
 民の呟きを聞いた主なる神は「憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営の端から焼き尽くそう」(1節)とした。主なる神は、私達が行ったこと、言ったことだけでなく、心の中で思ったこと、呟いたことも全て御覧になり、聞いておられる。それに対し、イスラエルの民は、恐ろしくなって、「モーセに助けを求めて叫びをあげた」(2節)。モーセが主なる神に祈ると、主なる神はその炎を鎮められた(2節)。私達が主なる神の御心を理解出来ず、恵みに感謝しない時、不平不満や呟きが生じる。しかし、私達が《荒れ野》の中を歩んでいる時も、主なる神は私達と共にいて下さる。

(2) 主なる神から与えられたマナ(4~9節)

 出エジプトの時、イスラエルの「民に加わっていた雑多な他国人」が荒れ野の旅路で「飢えと渇きを訴え」ると(4節)、イスラエルの民もそれに同調した。ここで注意しなければならないのは、彼らが今にも飢え死にしそうだったために不平を言ったわけではないという点である。主なる神はイスラエルの民にマナと呼ばれる食べ物をお与えになった。彼らにとって必要なものは与えられていた。
 にもかかわらず、イスラエルの民は、「どこを見回してもマナばかりで、何もない」(6節)と不平を言った。その一方で、「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」(5節)と奴隷だった頃を懐かしみ、「誰か肉を食べさせてくれないものか」(4節)と願った。主なる神が天から食べ物を与えて下さるという恵みを毎日経験しながら(9節)、イスラエルの民は主なる神に感謝することが出来なかった。彼らは「歩き回って」、マナを「拾い集め」ていながら、マナを降らせて下さる主なる神の憐れみを心に留めることはなかった。このように、不平不満や呟きは、私達の目を覆い、信仰と良心を鈍らせる。その結果、主なる神から注がれている恵みも見えなくなってしまう。