Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記11章10~23節

聖書の黙想と適用 民数記11章10~23節(新共同訳 旧約pp.231-232)

(1) モーセの訴え(10~15節)

 指導者は孤独である。人知れず重い責任に苦しみ、また自分の無力さを痛感させられることがある。イスラエルの民は「誰か肉を食べさせてくれないものか」(4節)と呟いた。モーセは「民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた」(10節)が、彼一人の力ではどうすることも出来ず、忍耐は限界に達していた。民の不満に対するモーセの反応は主なる神に訴えることであった。主なる神に祈ることは、指導者であるモーセが問題の前にして出来る最も重要なことであった。
 モーセは「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか」(11節)と主なる神に訴えた。そして、民の不満の声が余りにも大きいため、「どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください」(15節)とさえ願っている。モーセの訴えは、えにしだの木の下で「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」(列王記上19章4節)と嘆いたエリヤの祈りを連想させる。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを主なる神の御前に正直に吐き出した。私達も主なる神の御前に時に率直な祈りを献げる必要がある。主なる神は私達の限界を十分に理解して下さる。

(2) モーセの訴えに対する主なる神の返答(16~17節)

 主なる神は重荷を独りで負い、苦しむモーセに解決策を与えて下さった。即ち、モーセに「民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め」(16節)るよう命じ、彼らが民の重荷をモーセと共に負うようにされた(17節)。これによってイスラエルに新しい形の組織が出来た。他の人々に権限を賢く委ねる時、私達はより多くの働きをすることが出来るようになる。主なる神はモーセの嘆きに耳を傾けられると共に、その危機をチャンスに変えて下さった。
 また、主なる神は、モーセに授けたのと同じ霊を70人の長老にも注ぎ、彼らが主なる神の働きを果たすことが出来るようにすると約束された(17節)。主なる神は、指導者を立てられる時、聖霊を注ぎ、権威と力を与えて下さる。

(3) 民の不平不満に対する主なる神の返答(18~23節)

 主なる神は、不平不満を言うイスラエルの民に「主はあなたたちに肉を与え、あなたたちは食べることができる」(18節)と告げるようモーセに命じた。モーセは「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます」(21節)と懐疑的な反応を示した。しかし、主なる神は「わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう」(23節)と言われた。主なる神は、立てられた者の苦しみを傍観せず、御力を示して下さる。
 とはいえ、呟く民に肉を「鼻から出るようになり、吐き気を催すほど」(20節)与えるという表現から、主なる神が「どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか」(20節)という彼らの「泣き言」を決して喜ばれなかったことが分かる。オリーブ山でイエス・キリストが祈られたように、私達も主なる神に何かを願い求める時、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)という一点を忘れてはならない。