Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記11章24~35節

聖書の黙想と適用 民数記11章24~35節(新共同訳 旧約p.232)

(1) 預言状態になる長老達(24~30節)

 主なる神は、モーセに注がれた「霊の一部を取って」、70人の長老達に注がれた(25節)。主なる神の霊が臨んだ長老達は暫く預言状態になった(25節)。このことを通して主なる神は長老達に権威と力をお与えになった。キリスト者の指導者と非キリスト者の指導者の違いは、前者は聖霊に従うけれども、後者はそうではないという点である。私達の知識と経験だけでは主なる神の御心を全て知ることは出来ない。主なる神が臨在され、私達の人生に愛をもって介入して下さることが、キリスト者にとって、特にキリスト者の指導者にとって欠かせないことである。
 一方、エルダドとメダドは、「長老の中に加えられて」いながら、他の長老達と一緒に幕屋に出て行かず、自分達の宿営で預言状態になった(26節)。「若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュア」(28節)は、そのことをモーセの権威に対する挑戦と受けとめた。そのため「モーセのもとに走って行き」(27節)、「わが主モーセよ、やめさせてください」(28節)と進言した。しかし、モーセは、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか」と逆にヨシュアを叱責し、「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言った(29節)。ヨシュアは人間的な判断で主なる神の働きを制限しようとした。それに対し、モーセは自分の地位を守ることよりも、イスラエルの民全体が霊的に成熟することを重視した。
 主なる神は、特別な使命を担った指導者だけでなく、ご自分の全ての民に聖霊を授け、賜物を与えたいと願っておられる。主なる神はイエス・キリストを通して私達にも聖霊の賜物を与えて下さる。それは神の民としての権威であり、主なる神と隣人に仕えるための力である。主なる神はキリスト者がその賜物を通して神の国を建てることを願われる。

(2) うずら(31~35節)

 主なる神は、風を起こし、「海の方からうずらを吹き寄せ」、うずらの群れを「宿営の近くに落と」された(31節)。このことを通して、イスラエルの民の要求を満たすと共に、人間の理性を超えて働かれるご自分の力を示された(23節)。風に乗って飛んで来たうずらの群れは、「地上二アンマ[約90cm]ほどの高さに積もった」(31節)。イスラエルの「民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメル[約2300l]は集めた」(32節)。主なる神はイスラエルの民が欲しがっていた肉を確かにお与えになった。しかも、それは2日かけないと集めきれないほどの量であった。
 しかし、イスラエルの民が集めた肉を食べていた時、主なる神は「激しい疫病」によって彼らを打たれた(33節)。彼らが2日かけて必死で集めたうずらも、結局全て食されることなく、空しいものになってしまった。イスラエルの民はこの場所を「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」と呼んだ(34節)。そこで「貪欲な人々」が死に、葬られたからである。主なる神は、この出来事を通して、貪欲は罪であり、罪は死を生むことをイスラエルの民に教えられた。
 イエス・キリストは、「愚かな金持ち」のたとえにおいて「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカによる福音書12章20節)の末路を語り、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(同15節)と教えられた。パウロも「貪欲を偶像礼拝にほかならない」(コロサイの信徒への手紙3章5節)と警告した。私達は貪欲を制御出来なければ、その奴隷になってしまう。