Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記12章1~8節

聖書の黙想と適用 民数記12章1~8節(新共同訳 旧約pp.232-233)

(1) モーセに対するミリアムとアロンの妬み(1~3節)

 民の不平に続いて、モーセが直面したのは、自分の身内からの非難であった。ミリアムとアロンは、モーセの姉、兄であり、イスラエルの主要な指導者であった。そのような2人が「モーセがクシュの女性を妻にしていること」(1節)を非難した。しかし、実のところそれは表向きの理由であった。真の理由は「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」(2節)というモーセに対する妬みであった。ミリアムとアロンは、自分の弟のモーセが指導者として立てられていることへの妬みの故に、彼の権威に挑んだ。
 それに対し、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(3節)という言葉は、モーセに対するミリアムとアロンの非難が不当なものであることを示している。モーセは民の上に君臨していたわけではなかった。それどころか「主の民すべてが預言者になればよいと切望して」(11章29節)さえいた。妬みは、主なる神が立てられた権威に反旗を翻す争いへと発展し、私達を罪に陥れる。

(2) わたしの僕モーセ(4~8節)

 主なる神はモーセとアロンとミリアムを臨在の幕屋に呼ばれた(4節)。そして、アロンとミリアムがモーセの権威に挑んだことについて、自ら裁判官となって判決を下された。
 主なる神はモーセが特別な権威を与えられた指導者であることをアロンとミリアムに告げられた。主なる神は、イスラエルの民の中に預言者がいる場合、「幻によって自らを示し/夢によって彼に語る」と言われた。その一方で、モーセについては「口から口へ、わたしは彼と語り合う」(8節)と言われた。モーセは「主の姿」を直接「仰ぎ見る」ことが出来るほど、主なる神と親密な関係にあった(8節)。
 モーセが主なる神とイスラエルの民の間を執り成すという職務を与えられたのは、彼が主なる神に対して「この地上のだれにもまさって謙遜で」(3節)、忠実だったからである。それ故、主なる神は「あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか」(8節)とアロンとミリアムを叱責された。どのような共同体においても指導者の権威に対する非難や中傷があるものである。しかし、主なる神がお立てになった指導者に対しては、主なる神ご自身が弁護して下さる。