Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記12章9~16節

聖書の黙想と適用 民数記12章9~16節(新共同訳 旧約p.233)

(1) 主なる神の憤り(9~12節)

 主なる神はモーセを非難するミリアムとアロンに対して憤られた(9節)。主なる神の憤りはミリアムが「重い皮膚病にかか」(10節)るという形で現れた。モーセが黒い肌を持つ「クシュの女性を妻にしている」(1節)という非難に対する懲らしめは、ミリアムの肌を「雪のように白く」(10節)するというものであった。
 一方、アロンは、「彼女が重い皮膚病にかかって」いるのを見て、急いでモーセに主なる神への執り成しを要請した。アロンは、モーセを「わが主よ」(11節)と呼び、モーセに与えられた特別な権威を認めた。その上で、「どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください」(11節)と述べ、自分達の罪と愚かさを認め、主なる神に憐れみと赦しを願い求めた。
 私達も罪を犯してしまうことがある。その時、大切なのは罪の悔い改めである。直ちに主なる神の御前で自分の罪を認め、赦しを求めなければならない。罪を認めて悔い改める謙遜な人に、主なる神は赦しの恵みを与えて下さる。ダビデが歌ったように、「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)方である。

(2) モーセの執り成し(13~16節)

 モーセは、アロンの願いを受け入れ、「神よ、どうか彼女をいやしてください」(13節)と主なる神に助けを求めて叫んだ。自分を非難し、自分の権威に挑んだ2人のために執り成しの祈りを献げたのである。モーセが「この地上のだれにもまさって謙遜」(3節)であることが改めて立証された。
 このようなモーセの姿は、自分に敵対する人々のために十字架で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈られたイエス・キリストの柔和さ、謙遜さを連想させる。主なる神はイエス・キリストの故に私達を赦して下さった。だから、キリスト者イエス・キリストの故に他の人を赦さなければならない。とはいえ、これは私達の力では出来ない。キリスト者がそのように生きるために、聖霊が私達に愛を与えて下さる。
 主なる神は、モーセの祈りを聞き入れ、「ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる」(14節)と言われた。ミリアムの皮膚病が共同体全体を汚す恐れがあったからである。イスラエルの民は、ミリアムが隔離された7日間、彼女が戻るまで出発せずに待ち続けた(15節)。そして、癒されたミリアムと共にハツェロトを出発した(16節)。
 この出来事を通して主なる神はイスラエルに秩序を立てられた。モーセの権威に対する挑戦を、主なる神はご自分に対する挑戦と見なされた(14節)。主なる神は、教会においても指導者をお立てになり、ご自分の権威を委ねられる。それは教会の中に霊的な秩序を確立するためである。その指導者の権威を認めることは、共同体の中に臨む主なる神の統治を受け入れることを意味する。その一方で、指導者は、自分に反対する人のためにも執り成し、祈らなければならない。