Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記13章25~33節

聖書の黙想と適用 民数記13章25~33節(新共同訳 旧約pp.234-235)

(1) 偵察隊の報告(25~29節)

 偵察隊は、40日間カナンの地を偵察した後(25節)、「パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに」(26節)戻って来た。彼らはモーセに自分達が見たことについて2点報告をした。第一の報告はカナンの土地の肥沃さについてである。彼らは、自分達が持って帰って来たカナンの果物を見せ、「そこは乳と蜜の流れる所でした」と説明した(27節)。
 一方、第二の報告はカナンの先住民についてである。カナンの地には「アナク人の子孫」(28節)をはじめ、「ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人」(29節)が既に生活していた。偵察隊は「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大き」(28節)いと述べた。彼らは、イスラエルの民が約束の地に入るためには、乗り越えなければならない高いハードルが存在することを見出した。
 私達の前にも恐れや不安を与える多くの問題が存在する。そして、その解決は甚だ困難に思われることがある。しかし、私達と共にいて下さる主なる神は、この世のいかなる存在よりも強い方であり、この世のいかなる問題よりも大きな方であられる。目に見えるものが全てではないことを覚え、その問題を与えられた主なる神の御心を黙想し、主なる神の力強い御手に頼ろう。

(2) カナン占領に対する2つの見方(30~33節)

 偵察隊の報告を聞くと、イスラエルの民は動揺した。それに対し、偵察隊の一員のカレブは、「民を静め」、モーセに「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」とモーセに進言した(30節)。カレブは、主なる神が与えると約束して下さったのだから、目の前にどれほど大きな困難があったとしても、イスラエルの民は必ずカナンの地を与えられると勝利を確信していた。彼は、主なる神が全能で真実な方であることを信じ、信仰の目をもって現実を見た。
 一方、「彼と一緒に行った者たち」は「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(31節)と反対した。そして、カナンの地について「悪い情報を流し」(32節)、カナン征服は絶対に不可能であると言い回った。彼らは「我々が見た民は皆、巨人だった」と事実を誇張し、先住民の前では「自分がいなごのように小さく見えた」と語った(33節)。
 他の偵察者は恐れをなして信仰を失った。そして、不信仰によって目が覆われ、事実が歪んで見えた。また、主なる神が共にいて下さるにもかかわらず、先住民は自分達を「食い尽くす」に違いないと述べ、彼らの前では自分達は「いなご」のように卑小で無力な存在に過ぎないと卑下することは、主なる神に対する冒瀆でもあった。彼らは自分達が全知全能の主なる神の民であるという確固としたアイデンティティを持っていなかった。
 どのような視点で見るかによって人生の方向が決定される。問題そのものよりも重要なのはその問題を見る視点である。主なる神に対する信仰がないと、私達はすぐに否定的な考え、後ろ向きの思いになり、現実という壁の前で挫折してしまう。しかし、主なる神の言葉に対する堅い信頼があるならば、現実の前で挫折することはない。信仰とは、主なる神が約束されたことは必ずその通りになると信じ、主なる神の言葉通りに求め、探し、門を叩くことである(ルカによる福音書11章9~10節)。