Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記14章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記14章1~10節(新共同訳 旧約p.235)

(1) イスラエルの民の不信仰(1~4節)

 イスラエルの民は、「必ず勝てます」(13章30節)というカレブの言葉ではなく、多数の偵察者が流した「悪い情報」(同32節)の方を信じ、「声をあげて叫び」、「夜通し泣き言を言った」(1節)。そして、指導者であるモーセとアロンに対して不平を言い、「エジプトで死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった」とまで言った。彼らは、自分達がカナンの地で先住民に剣で殺され、妻子を奪われることを信じて疑わなかった(3節)。
 更に、民の呟きと不平は主なる神に対する不信に繋がった。彼らは「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか」(3節)と嘆いた。そして、主なる神が指導者として立てられたモーセを無視し、「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」(4節)と言い合った。主なる神は驚くべき御業によってイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出された。荒れ野では火の柱と雲の柱によって導き、マナとうずらをお与えになった。にもかかわらず、彼らは主なる神に信頼しなかった。
 呟きや不平は、自分だけに留まらず、共同体全体に悪影響を及ぼし、共同体全体を死の淵へと追いやって行く。それ故、ヤコブは舌を火に喩え、「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」と警告した(ヤコブの手紙3章5~6節)。主なる神の御心と御性質を深く黙想する時、私達の口からは呟きや不平ではなく、主なる神に対する感謝と讃美が溢れ出てくる。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げ」(ヘブライ人への手紙13章15節)つつ、主なる神が備えておられる道を進んで行こう。

(2) 民に対するヨシュアとカレブの訴え(6~10節)

 イスラエルの民がエジプトに帰ろうと言い出すと、「土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ」は自分の「衣を引き裂」いた(6節)。彼らは民の不信仰に対する悲しみと怒りを全身で表した。それが主なる神の御心に背き、その約束を無にするものだったからである。
 ヨシュアとカレブは、「イスラエルの人々の共同体全体」(7節)を、主なる神に対する信仰と約束の地カナンに対するビジョンに立ち帰らせようとした。2人は「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう」(7~8節)と確信を持って語った。他の偵察者が「我々が見た民は皆、巨人だった」(13章32節)と言った先住民についても、「あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない」(9節)と明言した。
 ヨシュアとカレブの確信は「主が我々と共におられる」(9節)という信仰に基づくものであった。それ故、彼らは「もし、我々が主の御心に適うなら」(8節)と強調し、「ただ、主に背いてはならない」(9節)と訴えた。天と地のいかなるものよりも主なる神は偉大であられる。その主なる神が私達と共にいて下さる。主なる神だけを畏れる時、私達はこの世のあらゆる恐れから自由になることが出来る。そして、危機の中にあっても大胆に行動し、言葉を発することが出来る。私達がこの世のものを恐れてしまうのは、私達と共にいて下さる主なる神を見上げていないからではないか。私達が信仰の目をもって現実を見る時、私達に恐れを与えていたものも小さな「餌食」のように見えるようになる。主なる神への信仰こそが恐れに打ち勝つ力である。