Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記14章11~25節

聖書の黙想と適用 民数記14章11~25節(新共同訳 旧約pp.235-236)

 主なる神は、イスラエルの民がどこまでもご自分を侮り、徴を無視し、信じなかったため(11節)、主なる神は「疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て」、モーセを通して「彼らよりも強大な国民」をつくると言われた(12節)。
 それに対し、モーセは主なる神に、「もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば」(15節)、他の民族は「主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ地で彼らを殺したのだ」(16節)と言うに違いないと述べた。モーセは主なる神の御名が「諸国民」によって侮られることを悲しんだ。
 その上で、モーセは「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪をお赦しください」(19節)と嘆願した。その際、彼は、「忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」(18節)であるという主なる神のご性質に訴えている。主なる神が怒られている時にも、モーセはその恵み深さを堅く信じていた。
 私達が罪の赦しを受けることが出来る根拠は主なる神の恵みにある。そして、主なる神の恵みが最も明確に現された出来事がイエス・キリストの十字架である。私達はイエス・キリストの十字架の故に、主なる神の御前に出て行くことが出来る。私達の罪にもかかわらず、直ちに滅ぼされることがないのは、主なる神の憐れみと慈しみの故である。
 モーセが持っていた主なる神に対する愛と同胞に対する愛が、主なる神の怒りからイスラエルの民を救った(20節)。これこそ主なる神の喜ばれる指導者の姿である。主なる神はご自分の御名を崇める者を喜ばれ、ご自分の御名を尊く見なす人を通して救いの御業を行われる。