Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記14章26~38節

聖書の黙想と適用 民数記14章26~38節(新共同訳 旧約pp.236-237)

(1) イスラエルの民に対する主なる神の裁き(26~35節)

 主なる神はイスラエルの民に「わたしはお前たちが言っていることを耳にしたが、そのとおり、お前たちに対して必ず行う」(28節)と語られた。カナン偵察の報告を受けて、彼らは「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった」(2節)と不平を述べた。主なる神は彼らが呟いた通りに「お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう」(29節)と言われた。即ち、主なる神「に対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者」(29節)は皆、主なる神が「住まわせると言った土地に入ること」(30節)が出来なくなった。主なる神がイスラエルの民を裁かれたのは、彼らの呟きのためであった。
 但し、「エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別」(30節)で、カレブが「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう」(8節)と語った通り、主なる神は彼らをカナンの地に導き入れると約束された(31節)。
 どちらも自分が語った通りになった。主なる神は私達の言葉に耳を傾けておられる。そして、私達の言葉に応答される。イエス・キリストは、盲人に「何をしてほしいのか」と聞かれ、「主よ、目が見えるようになりたいのです」という彼の答えに応じて癒された(ルカによる福音書18章41節)。逆に、私達が不信仰の言葉を口にする時、主なる神の裁きを招いてしまう。それ故、ソロモンは「愚か者の口は破滅を/唇は罠を自分の魂にもたらす」(箴言18章7節)と警告した。主なる神は全てをご存知であられるが、私達の信仰告白を私達の口を通して聞くことを望んでおられる。
 一方、主なる神は、不従順な民の子供について、彼らの親の「最後の一人が荒れ野で死体となるまで」、「荒れ野で四十年の間羊飼い」となると言われた(33節)。次の世代にとって、荒れ野での40年間は、親の「背信の罪を負う」(33節)懲らしめの期間であり、主なる神に「抵抗するとどうなるかを知る」(34節)学びの期間であり、そして約束の地に入るために神の民として整えられる訓練の期間であった。神の民にとって人生の荒れ野は、主なる神への従順を学ぶ場である。

(2) 偵察に行った10人の指導者に対する主なる神の裁き(36~38節)

 モーセに遣わされて、カナンの地を偵察した「指導者」(13章2節)のうち10人は、「その土地について悪い情報を流し、共同体全体が彼に向かって不平を言うようにした」(36節)。それに対し、主なる神は彼らに「主の御前で疫病にかかって死」(37節)ぬという厳しい裁きを下された。生き残ったのは、主なる神の約束を信じた「ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ」だけだった(40節)。
 主なる神は彼らに、カナンの地を与えるという主なる神の約束を堅く信じるようイスラエルの民を励ますという任務をお与えになった。にもかかわらず、彼らは民を却って恐れと不信仰へと導いた。約束の地を先に見ることが出来るという機会を与えられ、そこが「乳と蜜の流れる所」(13章27節)であることを確認しながら、彼らは否定的な報告によって共同体に悪い影響を与えた。使命が大きいほど責任も大きい。主なる神は影響力のある地位に立つ者の責任をより厳しく問われる。
 主なる神は教会にも指導者を立てられた。彼らは、どのような状況にあっても、神の民を信仰の道へと導くという重大な責任を負っている。指導者の失敗は共同体全体を破滅に導くこともあり得る。だからこそ、私達は指導者のために祈らなければならない。