Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記14章39~45節

聖書の黙想と適用 民数記14章39~45節(新共同訳 旧約p.237)

(1) イスラエルの民の嘆き(39~40節)

 イスラエルの民は、約束の地カナンに入ることが出来ず、荒れ野で死ぬことになるという主なる神の裁きの言葉を聞くと(29節)、「深く嘆」(39節)き悲しみ、後悔した。その上で、主なる神に御心を変えていただこうと考えたのか、彼らは「さあ、主が約束した所へ上って行こう。我々は誤っていた」(40節)と今になって土地侵入を企てた。
 しかし、彼らの行為は、悔い改めではなく、後悔に過ぎなかった。真の悔い改めは嘆くだけで終わるものではない。自分の考えを主なる神の御心に屈服させることである。私達は裁きの時が来る前に悔い改める必要がある。

(2) 主の命令に背くイスラエルの民(41~45節)

 悔い改めが本物かどうかは、主なる神の言葉に従うかどうかによって確認することが出来る。主なる神はイスラエルの民に「明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい」(25節)と既に告げられた。にもかかわらず、彼らがカナンの地に攻め上って行くことは、「主の命令に背く」(41節)行為であった。主なる神はご自分に背く者と共におられない(43節)。ご自分に不従順な人間を助けられない。それ故、主なる神の許しなしに自分の力でカナンの地に入ろうとする彼らの企ては「成功するはず」(41節)がなかった。
 モーセは「主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはならない。敵に打ち破られてはならない」(42節)と民に警告した。それでも、「彼らはかまわず、山の頂を目指して上って行」(44節)き、そして「山地に住むアマレク人とカナン人」によって討たれた(45節)。
 荒れ野における40年の生活は、イスラエルの民の「背信の罪」(33節)に対する主なる神の罰であった。にもかかわらず、彼らはどこまでも主なる神の言葉に聴き従おうとせず、自己中心的であった。主なる神と共にいる結果は祝福と勝利であるが、主なる神を離れた結果は呪いと敗北である。主なる神を無視した自分勝手な努力は決して実を結ばない。ただ失敗の苦痛を味わうだけである。