Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記15章1~21節

聖書の黙想と適用 民数記15章1~21節(新共同訳 旧約pp.237-238)

(1) 約束の地における奉献に関する規定(1~12節)

 主なる神は、イスラエルの民の不信仰に対する裁きの後、ご自分が「与える土地」に彼らが「行って住むとき」に(2節)、イスラエルの民が約束の地で「特別な誓願を果たすため、あるいは随意の献げ物をささげる」(3節)ため、「または祝日に、牛もしくは羊の群れから取って焼き尽くす献げ物あるいは和解の献げ物とし、燃やして主にささげる宥めの香りとする」(3節)ために詳細に教えられた。このことを通して、イスラエルの民をカナンの地に導くと言われた約束を、主なる神が決して反故にされなかったことが分かる。
 人間の失敗にもかかわらず、主なる神の約束は必ず成就する。イスラエルの民が約束の地に入り、まず為すべきことは、主なる神を礼拝することである。何故なら、礼拝は神を主と告白する信仰の行為だからである。神の民にとって礼拝以上に大切なものはない。そして、礼拝は主なる神が定められた方法の通りに献げなければならない。

(2) 寄留者と共に献げる礼拝(13~21節)

 カナンの地で「燃やして主にささげる宥めの香りをささげる」(13節)時には、カナンの地で共に生きる寄留者も含まれていた(14節)。彼らはイスラエルの民ではなかったが、主なる神を礼拝する恵みに与ることが出来た。その一方で、寄留者は献げ物に関してイスラエルの民と「同一の指示、同一の法」(16節に従わなければならなかった(16節)。「あなたたちも寄留者も主の前には区別はない」(15節)と主なる神はイスラエルの民に言われた。
 主なる神はイエス・キリストを通して、全人類が主なる神の御前に出て行くことの出来る道を開いて下さった。イエス・キリストの十字架によって、主なる神と人の間、人と人の間の隔ての壁が崩されたからである。私達が主なる神の御前に出ることが出来るのは、イエス・キリストの十字架の恵みの故である。主なる神は全ての民がご自分に礼拝を献げることを願っておられる。