Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記15章22~31節

聖書の黙想と適用 民数記15章22~31節(新共同訳 旧約pp.238-239)

(1) 共同体の罪とそれに対する贖い(22~26節)

 イスラエルの民が約束の地できよく生きるためには、あらゆる罪からきよめられなければならなかった。主なる神はイスラエルの民に、「過ちを犯し」、「主がモーセに告げられた」命令を「守らなかった場合」(22節)には、贖罪の献げ物をささげること(24節)、「祭司がイスラエルの人々の共同体全体のために贖いの儀式をする」(25節)ことを命じられた。「贖罪の献げ物」を「主の御前にささげる」ことによって、彼らは主なる神から罪の赦しを得ることが出来た(25節)。
 たとえその罪が「共同体の目に触れず、過ってなされた」ものであったとしても、イスラエルの民は「若い雄牛一頭」、「穀物の献げ物」、「ぶどう酒の献げ物」、「雄山羊一匹」を献げなければならなかった(24節)。知らなかったからと言って、罪が許容されることはなかった。罪をそのままにしておけば共同体全体を汚し、主なる神の怒りが下った。主なる神の臨在がイスラエルの民に留まり続けるためには、共同体を罪の汚染から守らなければならなかった。
 主なる神に仕えるためには、まず私達の罪がきよめられなければならない。罪が贖われ、再犯の防止に努めてこそ、健全な共同体となることが出来る。主なる神は、罪に対して厳格な方であるが、私達が新しい歩みを始めることが出来るよう、再出発の道も備えて下さる。

(2) 個人の罪とそれに対する贖い(27~31節)

「もし、個人が過って罪を犯した」(27節)場合には、その人は「一歳の雌山羊一匹を贖罪の献げ物として」(27節)献げなければならなかった。それを受けて、祭司が、その人のために「主の御前に贖いの儀式をする」時、その人の罪は赦された(28節)。その一方で、「故意に罪を犯した者」は、「主を冒瀆する者」として共同体の聖さを保つために「民の中から断たれ」た(30節)。神の民の生活は聖くなければならない。罪は主なる神との関係を断絶させる。
 その上で、主なる神は、「貧しくて羊や山羊に手が届かない」人に対しては、「犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩」(レビ記5章7節)を、それさえ難しい人に対しては「小麦粉十分の一エファ」(同11節)を「贖罪の献げ物」とすることを許された。これは一人一人の事情をよくご存知である主なる神の愛を表している。しかし、彼らも贖罪の献げ物を免除されることはなかった。
 人間が罪を犯した時、いかなる理由であろうとも、その罪は必ず解決されなければならなかった。共同体の罪であれ、個人の罪であれ、過失であれ、故意であれ、またイスラエルの民であれ、寄留者であれ(29節)、例外はなかった。主なる神との関係を維持するためには罪の贖いが不可欠である。そして、イエス・キリストの十字架だけが私達をあらゆる罪から完全に清めることが出来る(ヨハネの手紙一1章7節)。