Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙14章1~12節

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙14章1~12節(新共同訳 新約pp.293-294)

(1) 主なる神の召し使いとしてのキリスト者(1~6節)

 教会の中で見解の相違から他のキリスト者を批判することが起こる時がある。当時のローマの教会には、イエス・キリストの福音の故に「何を食べてもよいと信じている人」(2節)――異邦人のキリスト者――がいた。一方、ユダヤキリスト者の中には、イエス・キリストを信じるようになった後も、律法の食物規定を守り(レビ記11章)、「野菜だけを食べている」人がいた。そのため、ローマの教会では「食べる人」が「食べない人を軽蔑し」たり、逆に「食べない人」が「食べる人を裁」くなど、見解の相違により互いを罪に定めるということが起こっていた(3節)。
 また、ローマの教会では暦をめぐる問題も存在した。一部のユダヤキリスト者は、律法に規定されている暦を依然として重視し、「ある日を他の日よりも尊」んだ。一方、異邦人キリスト者は、それに縛られることなく「すべての日を同じように考え」た(5節)。
 両者の対立に対し、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(1節)と教えている。そして、その理由として主なる神の主権に言及している。即ち、キリスト者は主なる神の「召し使い」であり、主なる神が「主人」としてその人を「立たせ」ている(4節)。それ故、特定の食べ物を食べない人を侮ったり、食べる人を裁くことは、その人を召し使いとして受け入れた主なる神を裁くことに他ならなかった(3節)。
 その上で、パウロは、キリスト者にとって重要なのは、何をするかしないかではなく、「主のために」それをする(しない)ことであると教えた(6節)。
 教会ではイエス・キリストの福音があらゆる問題の是非を判断する基準である。そして、信じ、告げ知らせる福音は同じでなければならない(ガラテヤの信徒への手紙1章8節)。その一方で、福音の本質に関わらない事柄においては意見の違いを認め合う必要がある。
 とはいえ、福音の本質に反しないかどうかを判断するのが難しい事柄がある。その場合、私達はそれが主なる神に栄光を帰するかどうかを自らに問う必要がある。何故なら、主なる神に栄光を帰することこそが、「召し使い」であるキリスト者に求められていることだからである。
 キリスト者は「主人」である神を見上げ、主なる神が一人一人に与えられた相違を認め、互いに調和を保って生きる方法を学ばなければならない。主なる神が、私達一人一人に信仰を与え、その信仰を成長させて下さる。私達が躓かないよう、ご自分の御力をもって立たせて下さる。だから、他のキリスト者の行動をむやみに裁かず、互いに尊び、受け入れ、配慮し合おう。裁くことがお出来になるのは主なる神だけである(4節)。全てのことを「主のために」行い、互いに寛容をもって愛に努める時、主なる神に喜ばれる共同体を形成することが出来る。

(2) 主なる神の裁きの座の前に立つ(7~12節)

 私達の人生の目的は私達が誰に属しているかによって違ってくる。パウロは「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節)と述べ、キリスト者が主なる神の主権と所有権の下にあることを教えた。イエス・キリストは、十字架で死なれることによって「死んだ人の主」となられた。また、復活を通して「生きている者の主」となられた(9節)。だから、生きた者に対しても、死んだ者に対しても主権と所有権を主張することが出来る。
 キリスト者は、イエス・キリストを主人とし、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(8節)者である。「だれ一人自分のために」生きる者も死ぬ者もいない(7節)。パウロの生涯はまさにその良い模範であった。
 その上で、パウロは、私達が主なる神のものであるように、他のキリスト者も主なる神のものであり、それ故他のキリスト者を裁いたり、侮ったりしてはならないと説いた(10節)。パウロによれば、自分と信仰の表し方が異なるという理由で、他のキリスト者を批判し、非難するのは、その人に対する主なる神の主権と所有権を認めていないからである。そして、それは私達がやがて「神の裁きの座の前に立つ」(10節)ことを意識していないためであるとパウロは指摘する。
 パウロはやがて訪れる主なる神の裁きを警告する。最後の裁きの時、私達は主なる神の御前で「一人一人、自分のことについて神に申し述べ」(12節)なければならない。全ての言行が主なる神によって裁かれる日を意識して生きる時、私達は、他の人の信仰を裁いたり、侮ったり、非難したり出来なくなる。また、その最後の裁きの時、全ての神の民が主なる神の御前に膝を屈め、主なる神をほめたたえることになる(11節)。見解の相違の故に今対立している他のキリスト者も、自分と同じようにイエス・キリストによって救いへと入れられた「兄弟」(10節)である。生きるにしても死ぬにしても、私達は主なる神に栄光を帰すことが求められている。