Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記16章12~22節

聖書の黙想と適用 民数記16章12~22節(新共同訳 旧約pp.240-241)

(1) ダタンとアビラムの反逆(12~14節)

「エリアブの子であるダタンとアビラム」は、コラと共にモーセに反逆し、モーセの呼び出しにも応じなかった(12節)。彼らは、自分達が約束の地カナンに入り、「嗣業」として畑やぶどう畑を得ることなく、荒れ野で死ななければならなくなった原因と責任をモーセに押しつけた。また、モーセが自分達の上に君臨したがっていると非難した(13~14節)。彼らは「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった」(14章2節)と言った自分達の不信仰を棚に上げ、あらゆる不平不満をモーセ一人のせいにした。
 ダタンとアビラムは「あなたがたは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」(3節)と《平等主義》を根拠にモーセに逆らった。しかし、その実、彼らの非難は、モーセとアロンにだけ権威が与えられていることに対する嫉妬に基づくものであった。そこから彼らは徒党を組み、イスラエルの民を扇動し、モーセとアロンに逆らわせようとした。
 確かに、全ての人間は「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)者として、同じように尊厳を持ち、同じように主なる神に愛されている。その意味で人間は《存在においては》皆平等である。しかし一方で、主なる神はご自身の御業を行い、神の国を前進させるために特定の人をお立てになる。その意味で人間は《役割においては》平等ではない。主なる神が立てられた人を拒むことは、主なる神に対する反逆である。主なる神が立てられた権威に対する反逆は、いかなる理由があろうとも決して正当化することは出来ない。

(2) モーセの祈り(15~22節)

 モーセは自分に反逆する人々に対して「激しく憤っ」(15節)た。しかし、その怒りを彼らにそのままぶつけることをせず、主なる神の御前に心を注ぎ出した。モーセは主なる神に「彼らから一頭のろばも取ったことはなく、だれをも苦しめたことはありません」(15節)と告白した。これは「我々の上に君臨したいのか」(13節)というダタンとアビラムの非難に対する応答であった。
 その一方で、主なる神がモーセとアロンに「この共同体と分かれて立ちなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす」(21節)と言われると、彼らは主なる神の御前にひれ伏し、「あなたは、一人が罪を犯すと、共同体全体に怒りを下されるのですか」と執り成しの祈りを献げた(22節)。モーセは、何か問題が起こると、まず主なる神に祈り、謙って御心を求めた。また、自分に反逆するイスラエルの民のためにも執り成しの祈りを献げた。主なる神は、そのようなモーセを指導者として立て、イスラエルを守り導かれた。