Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記17章1~15節

聖書の黙想と適用 民数記17章1~15節(新共同訳 旧約p.242)

(1) 警告のしるしとしての祭壇の覆い(1~5節)

 主なる神は、モーセを通して「祭司アロンの子エルアザル」に(1節)、焼かれて「命を落とした罪人」250人が献げた青銅の香炉を「焼け跡から取り出し」(2節)、その「香炉を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作」るよう命じられた(3~4節)。彼らは罪を犯して主なる神の裁きを受けたが、香炉は「主の御前にささげられ、聖なるものとされている」(3節)。主なる神はこれを用いてイスラエルの人々に秩序に対する従順と主なる神に仕える方法を教えられた。
 祭壇の覆いは「イスラエルの人々に対する警告のしるし」(3節)であった。即ち、イスラエルの人々は、今後焼き尽くす献げ物をささげる時、祭壇の覆いを見る度に「アロンの子孫以外の者が主の御前に近づき、香をささげてはならないこと」、「コラとその仲間のように」主なる神が立てられた指導者に妬みを抱くことのないようにすることを「思い起こ」すことになった(5節)。これは彼らに同じ失敗を繰り返させないための主なる神の配慮であった。
 私達は自分が犯した罪の故に懲らしめを受けた時、それを教訓とし、同じ罪を繰り返さないよう警戒する必要がある。その際、過去の罪をなかったことにして、隠そうとしてはならない。過去の罪を主なる神の御前で認め、心から悔い改めることを主なる神は願われる。

(2) 民のために罪を贖う儀式を行うアロン(6~15節)

イスラエルの人々の共同体全体」は、主なる神の裁きを目の当たりにしたにもかかわらず、自分達の罪を悟らなかった。そればかりか、彼らは「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」(6節)とコラとその仲間の死をモーセとアロンのせいにし、彼らを激しく糾弾した。そのため、主なる神の怒りは民全体に及んだ(7節)。主なる神は彼らに罰として疫病を下された(11節)。その結果、14700人が疫病によって死んだ(14節)。自分の罪を認めて悔い改めなければ、主なる神の裁きを免れることは出来ない。
 イスラエルの人々を救ったのはアロンの執り成しであった。アロンは、モーセの指示を受け(11節)、「香をたき、民のために罪を贖う儀式を行」(12節)った(11節)。すると、災害は治まった(13節)。250人が献げた香炉は主なる神の裁きと死をもたらしたが、アロンの香炉は民に贖いと命をもたらした。このことを通して主なる神は、祭司としてのアロンの権威と使命をもう一度イスラエルの民に教えられた。
 祭司には民を執り成す使命が与えられている。自分に敵対する人々のために執り成しをしたアロンの姿は、十字架上で私達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈られたイエス・キリストの姿と重なる。キリスト者にも、祭司として、相手が誰であれ――たとえ自分と敵対する人間であったとしても――、その人を生かすために、執り成しの祈りを献げる責任と務めが与えられている。