Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節(新共同訳 旧約p.245)

(1) レビ人に対する報酬(21~24節)

 イスラエルの人々は、約束の地カナンにおいて主なる神から「嗣業の土地」を与えられ、そこを生活の基盤とした。しかし、レビ人は、住まいとして「四十八の町とその放牧地」(35章7節)を与えられただけで、嗣業の土地を所有することはなかった(23~24節)。しかし、主なる神ご自身が彼らの「受けるべき割り当てであり、嗣業」(20節)であった。
 その上で、主なる神は「イスラエルでささげられるすべての十分の一」をレビ人に与えられた(21節)。民がささげた献げ物は、主なる神に対する感謝のしるしであると共に、レビ人が「臨在の幕屋の作業をする報酬」(21節)であった。こうしてレビ人は臨在の幕屋で仕える働きに専念することが出来た。主なる神はご自分のために働く者の奉仕と献身に対して報いて下さる。
 主なる神は今日の教会においてもレビ人のような働き人を立てられている。キリスト者は誰でも尊いが、主なる神への礼拝という神の国における中心的な活動に携わるよう召されたという意味において彼らの職責は特別に尊い。献身者は自分が主なる神のものとされていることに恐れ戦きつつ務めに励もう。また、他のキリスト者は、その働き人が主なる神の言葉をまっすぐに説き明かし、主なる神に忠実に仕えているならば、主なる神の権威を認め、彼らに敬意を払い、彼らの労苦と献身に感謝し、金銭的にも責任をもって支えていこう。

(2) レビ人が主にささげる十分の一の献納物(25~32節)

 十分の一の献げ物は、全ての神の民が主なる神から与えられた恵みの一部を感謝をもって主なる神にお返しするものである。主なる神はレビ人に、主なる神が「嗣業として与えた十分の一」のうち「十分の一を主にささげる献納物」とするよう命じられた(26節)。
 その際、レビ人は「贈られたもののうちから最上のもの、聖なる部分を選んで、主にささげる献納物としなければならな」(29節)かった。また、彼らは「最上のものをささげる」ことにおいて「罪を犯し」たり、「イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚」さないように注意しなければならなかった。主なる神はレビ人に、それを蔑ろにすることは「死を招」くと言って厳守を求められた(32節)。
 その上で、レビ人が「主にささげる献納物」は「祭司アロンに与え」られた(28節)。民が献げた主なる神への献納物はレビ人のものとなり、レビ人が献げた主なる神への献納物は祭司のものになった。このようにイスラエルの共同体は、民とレビ人と祭司が相互の奉仕と主なる神の祝福によって親密に繋がっていた。
 キリスト者が自分の収入の10分の1を献げるのも義務感や点数稼ぎのためであってはならない。イスラエルの民は献げ物を通して主なる神への愛を表した。また、それと共に同胞に対する愛と感謝をもって共同体を形成した。同様に、キリスト者が豊かに献げたいと願うのも主なる神を愛しているからである。また、収入の一部を主なる神に献げることによって、教会では他の兄弟姉妹に対する愛と配慮が更に豊かになっていく。