Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 罪の清めのための赤毛の雌牛(1~6節)

 主なる神は私達に清さを求められる。コラとその仲間による反逆や民の不平など、イスラエルの共同体では人々が自らの罪の故に次々に荒れ野で死を迎えていった。そのような中で主なる神はモーセとアロンを通してイスラエルの人々に罪の汚れを清める方法を教えられた(1節)。
 イスラエルの民は「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛」(2節)を罪の清めのための生贄として献げるよう命じられた。彼らは、「宿営の外」で赤毛の雌牛を屠り(3節)、「皮も肉も血も胃の中身も共に焼」(5節)いた。その灰が罪の清めに用いられた。
 雌牛の赤毛は罪の贖いのために流される血を象徴する。イスラエルの民の罪と汚れは生贄の血によって清められた。「血を流すことなしには罪の赦しはありえな」(ヘブライ人への手紙9章22節)かった。「緋糸」を赤毛の「雌牛を焼いている火の中に投げ込む」のもそのためであった(6節)。
 赤毛の雌牛は、私達のあらゆる罪を清めて下さるイエス・キリストの十字架の贖いを思い起こさせる(ヘブライ人への手紙9章12~13節)。今日の私達もイスラエルの人々と同じようにいつも罪と汚れに晒されている。しかし、私達は赤毛の雌牛を生贄として献げる必要はない。何故なら、「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」が、私達の罪と汚れを清め、私達を「生ける神を礼拝する」ことへと導いて下さるからである(同14節)。イエス・キリストの御名によって罪を告白する時、私達は罪の赦しを得ることが出来る。

(2) 民の罪の清めに関わる人々(7~10節)

 祭司は赤毛の雌牛を用いて「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)全ての過程に関わった。赤毛の雌牛は祭司の前で屠られ(3節)、焼かれた(5節)。祭司は「指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りま」(4節)いた。「杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む」(6節)ことも祭司の役割であった。このようにして作られた「雌牛の灰」(9節)は、イスラエルの人々の罪を清めるために用いられた。
 しかし、この過程で祭司は「夕方まで汚れ」ることになった(7節)。赤い「雌牛を焼いた者」(8節)、「雌牛の灰を集めた者」(10節)も同様であった。「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)ことに携わった時、祭司は「自分の衣服を洗い、体に水を浴び」なければ、「宿営に入ることができ」なかった(7節)。彼らの労苦と犠牲があってこそ、イスラエルの共同体は清さを保つことが出来た。
 キリスト者も祭司の使命を与えられている。罪のために悩み、苦しむ隣人を助けることには、非常に大きな労苦と犠牲を伴う。しかし、その人が救いを受けるために、キリスト者は、聖書の言葉と祈りをもって清さを保つよう努めると共に、愛をもって隣人を助けることを求められている。