Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 民の不平(1~5節)

 イスラエルの人々は、エジプトを出た後、カデシュで主なる神に呟いたために荒れ野で流浪生活をすることになってしまった(13章26節、14章35節)。それから40年が経ち、彼らは再びカデシュに戻って来た(1節)。そこは約束の地カナンに非常に近い場所であった。出エジプトの第一世代は荒れ野で死を迎えたが、モーセの姉ミリアムもこの地で死に、埋葬された(1節)。
 とはいえ、第二世代になっても、イスラエルの人々は全く変わっていなかった。彼らは、「共同体に飲ませる水がなかった」ことに不平を言い、「徒党を組んで」、指導者である「モーセとアロンに逆らった」(2節)。この出来事は、レフィディムで水がなかった時(出エジプト記17章1~3節)、またパランの荒れ野でカナン偵察の報告を聞いた時(民数記13~14章)、彼らの親がモーセやアロンに不満をぶつけた出来事を想い起こさせる。
 不平不満の根底には主なる神への不信仰がある。イスラエルの民は、自分自身と家畜の生存を脅かす水不足という状況に直面して、主なる神の約束と守りを信頼することが出来なくなった。彼らは不平不満に心を支配され、出エジプトの恵みを忘れ(5節)、「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」(3節)と言った。何故イスラエルが長い間荒れ野で放浪をしなければならなくなったのか、これまで主なる神が彼らをどのように守り、導いてこられたかについて、彼らは顧みることも感謝することもなかった。
 一時的な困難のために主なる神の恵みを忘れることは非常に愚かなことである。イスラエルの民は「ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえないではありませんか」(5節)とないものを列挙した。しかし、主なる神が彼らと共におられ、彼らに目を注いでおられることを忘れてしまっていた。
 私達も、自分自身や仕事、また周りの人ばかりに目を奪われず、私達を愛し、私達と共にいて下さる主なる神を見上げよう。問題にぶつかった時には不平を言うのではなく、主なる神の御前に出て行き、主なる神と対話をしよう。その時、私達は主なる神との繋がりを確信することが出来る。このことは、私達を励まし、強め、満たしてくれる。そして、主なる神に対する感謝と讃美へと私達を導く。

(2) モーセの怒り(6~13節)

 イスラエルの民の不平不満を聞くと、モーセはこれまでと同様に主なる神の御前にひれ伏した(6節)。主なる神はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(7節)と命じられた。
 しかし、民の度重なる反逆にモーセは憤りを制することが出来なかった。モーセは民に対し「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と感情を顕わにした。「杖で岩を二度打」(11節)ってしまったことも、モーセの激しい怒りを表していた。
 モーセが感情に流されてしまったことは、主なる神の僕に相応しい態度ではなかった。主なる神はモーセとアロンに対し、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」(12節)と叱責された。そして、その結果、二人は約束の地カナンに入ることが出来ず、荒れ野で死ぬことになってしまった(12節、申命記1章37節、3章26節、4章21節)。
 神の民は主なる神の御心を表す管である。どれほど腹立たしい状況に直面しても、自分の感情が主なる神の言葉よりも先立つことがあってはならない。神の民は、いかなる状況にあっても主なる神が助けて下さることを信じ、主なる神の言葉に従い、主なる神の聖さを現さなければならない。