Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記21章10~20節

聖書の黙想と適用 民数記21章10~20節(新共同訳 旧約p.249)

(1) 旅を続けるイスラエルの人々(10~15節)

 イスラエルの人々は、エドム人の領内を通ることが出来なかったため、アモリ人の住む土地に向かって北進した。オボト(10節)、「モアブの東側の荒れ野にあるイイエ・アバリム」(11節)、ゼレドの谷(12節)、「アルノン川の向こう岸」(13節)を経て、「モアブの国境」(13節)に到った。
 イスラエルの民が旅の中で宿営した地、またそこの地理が詳しく記されているのは――『主の戦いの書』という他の文献からも引用がなされている(14節)――、彼らの通ったコースが、当初予定していた「王の道」(20章17節)よりも地形の面で遥かに険しく、時間もかかることを示すためだろう。しかも、エドム人であれ(20章18節)、アモリ人であれ(21章23節)、先住民は領内を通ろうとするイスラエルの民に敵対的であった。彼らの進む道は緊張の連続であった。
 それでもイスラエルは主なる神の指示に従った。神の民は主なる神から与えられた約束が完全に成就するまでに様々な困難に直面する場合がある。その時、私達の思いや考えは目の前の厳しい現実に留まりがちである。しかし、主なる神の約束は真実であり、その導きに決して誤りはない。ビジョンが確かであるならば、そして主なる神の導きに信頼して従うならば、私達は、大きな期待と望みを抱きつつ、力強く勝利することが出来る。

(2) イスラエルの民に井戸を与える主なる神(16~20節)

 主なる神は険しい道程を進んでいたイスラエルの人々をベエル――「井戸」という意味――に導かれた(16節)。荒れ野の旅において最も切実な問題は水の確保であった。ベエルに着くと、「笏と杖とをもって司たちが井戸を掘り/民の高貴な人がそれを深く掘った」(18節)。主なる神がモーセに「民を集めよ、彼らに水を与えよう」(16節)と言われたからである。
 水を与えられると、イスラエルの民は感謝の歌を歌った。それまではイスラエルの民が喉の渇きを訴える度に、モーセとアロンを通して水を得ていた(20章11節、出エジプト記17章6節)。しかし、ここではイスラエルの指導者が自ら井戸を掘っている。「井戸よ、湧き上がれ」(17節)という言葉からは、主なる神の言葉に依り頼む彼ら自身の信仰を見ることが出来る。水の問題を解決したイスラエルは、「荒れ野からマタナ、マタナからナハリエル、ナハリエルからバモト、バモトからモアブの野にある谷へ、そして荒れ果てた地を見下ろすピスガの頂」(18~20節)に向かった。
 イエス・キリストサマリアの女に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4章14節)と言われた。この方は私達の必要をご存知であり、いかなる時も私達と共にいて下さる。そして、ご自分に従う者に助けを与えて下さる。ここでのイスラエルがそうであったように、キリスト者イエス・キリストの恵みをほめたたえよう。