Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記25章1~18節

聖書の黙想と適用 民数記25章1~18節(新共同訳 旧約pp.257-258)

(1) シティムにおけるイスラエルの背信(1~5節)

 イスラエルの民は「シティムに滞在していたとき」(1節)再び罪を犯した。彼らは「モアブの娘たちに従って背信の行為」(1節)をした。そして、「ペオルのバアル」(3節)に「犠牲をささげ」、「娘たちの神々を拝んだ」(2節)。彼らの行為によって主なる神が臨在される共同体の聖さが大きく損なわれた。また、主なる神との親密な契約関係に亀裂が生じた。
「主はイスラエルに対して憤られ」(3節)、モーセにペオルのバアルを礼拝した「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさら」(4節)すよう命じられた。モーセは、主なる神の命令に従い、イスラエルの裁判人に「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい」(5節)と告げた。
 このように、イスラエルの民が淫らな行いと偶像礼拝に陥ったことについて、聖書の幾つかの箇所は、呪術師バラムの計略のためであると語っている(31章16節、コリントの信徒への手紙一10章8節、ヨハネの黙示録2章14節)。性的な堕落と霊的な堕落は密接に関連している。それは神の民の信仰と生活を崩壊させるものである。

(2) イスラエルに対する主なる神の熱情(6~18節)

 主なる神の怒りはその聖いご性質を反映している。主なる神の罰としてイスラエルに恐ろしい災害が襲い、24,000人が命を落とした(9節)。民が「臨在の幕屋の入り口で嘆いている」(6節)と、「シメオン族のうちの家族の指導者」であった「サルの子ジムリ」(14節)が「ミディアン人の部族の父祖の家の長であるツルの娘」(15節)コズビを「連れて同胞のもとに」(6節)やって来た。
 その時、「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハス」(7節)の内に、主なる神が「イスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情」(11節)が燃え上がった。彼は任務を遂行するにあたり、常に慎重さと厳密さを求められる祭司であった。しかし、ここではピネハスは「槍を手に取り」(7節)、この2人を「共に突き刺」(8節)すことを断行した。
 ピネハスの行為は、主なる神の心を動かし、イスラエルに対する「怒りを去らせた」(11節)。その結果、主なる神は「熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすこと」をなさらなかった。また、主なる神はピネハスを祝福され、「彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる」(12節)と約束された。主なる神の願われる聖さの基準が今日の私達の基準である。