Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 民数記35章22~34節

聖書研究 民数記35章22~34節(新共同訳 旧約pp.276-277)

【概要】
 過って人を殺した者は、逃れの町に住み、大祭司が死んだら自分の所有地に帰ることが出来た。それよりも前に逃れの町の外に出て行った場合、血の復讐をする者がその人を殺しても罪はない。誰かが人を殺した場合、その審理においては必ず複数の証人の証言が必要であった。その上で、故意に人を殺した者は必ず死刑に処せられなければならなかった。

【歴史的背景】
殺人者に対する対処
 古代セム族の時代から、殺害された人の最も近い親族には、殺人者を追って殺す権利があった。しかし、それにより代々敵対する家が生じた。逃れの町はこれを防止する。殺人者は審理を受けて故意の殺人者と判定されれば血の復讐をする者に渡されるが、故意ではないと判断されれば、復讐する者を避けて逃れの町で保護された。しかし、君主の登場により、王が裁判によって殺人者に死刑を宣告したり、赦免したりするようになると、殺人者の保護は君主に一任された。殺人の裁判の証言には、最低2人の証人が必要であった。故意に人を殺した者は、逃れの町に入っても、祭壇の角を掴んでも引き出されて死刑にされた。殺人者には贖い金も許されなかった。

【釈義】
26~28節 殺人者が逃れの町の外に出た場合
 故意でなかったとしても、人を殺した者が逃れの町の外に出るなら、その人を血の復讐する者から守る術はない。血の復讐をする者がその人を見つけて殺しても、その人を殺した復讐者には殺人罪は適用されない(26~27節)。意図せずに人を殺した者が完全に赦免されるのは、大祭司が死んだ時である。逃れの町に逃げ込んだ者は、大祭司が死んだら、血の復讐を受けるべき状況から解放され、自分の所有地に帰ることが出来た(25節、28節)。大祭司の死が、意図せずに人を殺し、逃れの町に逃げ込んだ者の赦免を可能にした。

【黙想】
 もし殺人者が逃れの町を出るなら、復讐することが出来た(27節)。ソロモンは父ダビデを呪ったシムイをエルサレムに留まるという条件で赦した。しかし、エルサレムを「出て行ってキドロンの川を渡れば、死なねばならない」(列王記上2章37節)と警告した。3年後、逃げた僕を捜し出すためにエルサレムを出た時、シムイは殺された。
 逃れの町はイエス・キリストに似ている。イエス・キリストは罪人の罪を代わりに負って死なれ、贖いをなして命を得させる。しかし、イエス・キリストの外では主なる神の怒りと復讐がある。イエス・キリストの内にある者だけが主なる神の怒りを免れる。逃れの町を出ようとする貪欲に注意しなければならない。

【適用】
 殺人者が逃れの町の外に出ることは、主なる神の守りを拒む行為と見なされた。殺人者は自由に行き来出来る立場にはなかった。限られた空間で生きることは、確かに息苦しい。しかし、逃れの町の外には安全はない。血の復讐をする者にいつ会うか分からない。逃れの町の外に出るということは、主なる神に拠り頼まず、自分の力だけに頼ることだった。
 同様に、イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストの中にいるなら安全である。しかし、或る人は、イエス・キリストを離れている方が楽しく格好良いと考える。イエス・キリストと世の間で綱渡りのような生活をし、片足はイエス・キリストに、もう片方の足は世に置いているような人もいる。このような生活は危機の時に脆く崩れる。逃れの町の外に出て、血の復讐をする者に会うのと同じような状況が起こるのである。イエス・キリストという逃れの町で、平安の内にイエス・キリストと交わりを持ち、イエス・キリストと共に歩む幸いを知るなら、そのような愚かなことはしない。イエス・キリストから離れる時、サタンはキリスト者を攻撃して、食い尽くそうとする。永遠の逃れの町であるイエス・キリストから離れてはならない。

【祈り】
 主よ、殺人者が逃れの町の中でのみ命を守られたように、私達もイエス・キリストの内にあってのみ救いと守りを受けることが出来ます。永遠の逃れの町であられるイエス・キリストの御許に留まり続けることが出来ますように。