Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編42編1~12節

聖書研究 詩編42編1~12節(新共同訳 旧約pp.875-876)

【概要】
 詩人は主なる神を求めていた。彼は以前祭りに集う人の群れと共に神の家に行ったことなどを思い起こし、魂を注ぎ出した。敵の虐げや嘲りによって彼の魂はうなだれていたが、主なる神の救いを待ち望み、なお主なる神をほめたたえた。

【背景】
涸れた谷(2節)
 パレスチナの岩盤地質と乾燥した気候では、川は非常に重要な水源である。旧約聖書で「川」と翻訳されている殆どの語は、季節によって生じる川を指すנַ֫חַל [nachal]であるが、ここではאֲפִיק [aphiq]が用いられている。この語は19回ほど登場し、主に渓谷や谷間、峡谷に沿って流れる水の流れを指す。パレスチナのような乾燥地域では、このような川を見つけるのは簡単ではない。この語は捕囚の回復に対しても使われている(126編4節)。

【釈義】
10~12節 敵の故の嘆き、主なる神を待ち望む
 詩人は主なる神を「わたしの岩」(סַלְעִי֮ [sal-‘î])と言い、主なる神が自分の力となって、守って下さっていると告白する。このように彼は主なる神のことを思い起こすが(7節「わたしの神よ」)、現実には自分を虐げる敵(10節)、そして絶え間なく嘲る者に囲まれていた(11節)。彼らは「お前の神はどこにいる」と詩人を謗った(4節、11節)。詩人は、主なる神が自分のことを「お忘れになった」としか思えず、「嘆きつつ歩」きながら、疑問詞の「なぜ」(לָמָ֪ה [lā-māh])を繰り返して、主なる神に自分の心を吐き出した(10節)。この疑問詞の繰り返しによって、現実の苦しみから急いで自分を救って下さることを主なる神に切に願う、詩人の心が強調されている。
 しかし、12節で詩人は、6節と同様にもう一度「御顔こそ、わたしの救い」という信仰を告白し、主なる神を待ち望み、主なる神をほめたたえている。

【黙想】
 詩人はうなだれた状態で主なる神を思い起こそうとした。しかし、彼はエルサレムから遠く離れたヘルモン山、ミザル山にいた(7節)。それは心理的な距離でもあり、主なる神から遠く離れた彼の苦しみを大きくした。
 詩人は主なる神のことを考えようとしたが、まるで主なる神が自分に背を向け、自分のことを忘れてしまったかのように感じていた。そのため、「お前の神はどこにいる」(11節)という敵の言葉が、骨を砕く鋭い剣のように詩人の魂を貫いた。
 それでも詩人が拠り頼めるのは主なる神しかいなかった。それ故、彼は主なる神に「なぜ、わたしをお忘れになったのか」(10節)と切実に訴えた。主なる神が命であり(3節)、岩であり(10節)、恵みを施される方だからである。

【適用】
 詩人は「なぜうなだれるのか」と自分の魂を叱咤した。信仰を失うほどの苦しみの中でも、主なる神に縋り、希望を抱いた。苦しいが激しい時こそ、主なる神を求めるべきである。自分の意志で信仰を持つことは出来ないが、信仰を守ることには意志が必要である。絶望の中でも信仰を守り、主なる神にその苦しみを訴えよう。主なる神は私達と共にいて下さる。

【祈り】
 主よ、問題が生じる度にあなたを信じない者のよう怖気づき、落胆していました。これからはあなたに信頼し、不安に留まることがありませんように。あなた以外には望みがないことを告白し、飢え渇いた心であなたを求めさせて下さい。