Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編43編1~5節

聖書研究 詩編43編1~5節(新共同訳 旧約pp.876-877)

【概要】
 詩人は主なる神に、よこしまな者から自分を救い出し、光とまことを遣わしてご自分のおられる所に導いて下さるよう願い求めた。彼は、神の祭壇に近づき、主なる神を喜び祝い、琴を奏でて主なる神をほめたたえた。そして、自分の魂に向かって「なぜうなだれるのか」と言い、自らに「神を待ち望め」と語りかけた。

【背景】
42編と43編の関係
 マソラ本文や70人訳では42編と43編に分かれているが、本来は一つの詩であると推察される。その根拠は次の通りである。
①2つの詩のサビが同じである。
②2つの詩の主題と語彙及び形式が同じ、もしくは似ている。
③韻律が同じである。
④43編の表題がない。
 そのため、42編と43編を一つの詩と考え、3つの連(42編2~6節、42編7~12節、43編1~5節)に区分して解釈することも出来る。43編は礼拝で用いるために分けられたと考えられる。

【釈義】
3節 主なる神に救いを願い求める
 主なる神に訴えと嘆きの祈りをささげた詩人は、再び主なる神に救いを求めている。1節と同じく、本節でも3つの命令形動詞とその動詞の再帰的意味を通して、主なる神に救いを求めている。その3つとは、「遣わしてください」(שְׁלַח [šə-laḥ-])、「導(いてください)」(יַנְח֑וּנִי [yan-ḥū-nî;])、「伴って(ください)」(יְבִיא֥וּנִי [yə-ḇî-’ū-nî])である。その主体は、主なる神の「光」(אוֹר [or])と「まこと」(אֱמֶת [emeth])である。42~43編の全体の文脈からすると、「光とまこと」は主なる神の救いを指し示している。「光」は、主なる神との関連で使われる時には主なる神の栄光を意味し、「まこと」は契約の神の真実さを指す。即ち、「光とまこと」の主体であられる神が、敵の虐げや苦しい状況から詩人を救い出して下さる方であることを訴えているのである。これは主なる神をほめたたえることを求める5節や42編6節、12節と繋がる。悪人は「お前の神はどこにいる」と嘲笑うが(42編4節、11節)、詩人はご自分の契約に真実な神が栄光の光に輝く御顔を現し、主なる神が臨在されるシオンの山で礼拝をささげる日が来ることを祈り願った。

【黙想】
 詩人は主なる神の「光とまこと」を求める(3節)。光は暗闇を追いやり、まことは偽りを退ける。主なる神は私達を正しい道に導いて下さる。詩人は主なる神に、悪人達の欺きと不正を退けて下さるように求めた。そして、自分を正しい道へと導き、主なる神の「聖なる山」(3節)に連れて行って下さるように願った。聖なる山、即ちエルサレム神殿に行くことは、疑いから解放され、主なる神の御前に出て礼拝することを指す。詩人を偽りの訴えから救って下さる方は、光とまことの神だけである。

【適用】
 嘆き続けることは、患難の深い谷の中へと私達を追いやり、道を見失わせる。嘆きで苦しみの山を乗り越えることは出来ない。どのような時も私達を導かれるのは主なる神である。道であられる神が、私達を導き、苦しみの山を越えさせて下さる。主なる神は光とまことによって私達を導かれる(3節)。嘆き続けるのではなく、主なる神をほめたたえよう(4節)。苦しみを前にしても、嘆いてばかりいるのではなく、私達を導いて下さる主なる神をほめたたえよう。

【祈り】
 悔しい目に遭った時や、迫害されて霊的に弱くなった時、主なる神に見捨てられたかのようで、絶望してしまいます。主なる神の光と真理の言葉により私を立ち上がらせ、主の臨在の中に導き、悲しみの涙の代わりに喜びの讃美によって主なる神を崇めることが出来ますように。