Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編46編1~12節

聖書研究 詩編46編1~12節(新共同訳 旧約p.880)

【概要】
 詩人は、主なる神が自分達の避け所であり、砦であると告白する。主なる神は、苦難の時、必ずそこにあって助けて下さる方である。だから、何が起ころうとも決して恐れないと詩人は言う。更に、主なる神はこの地を圧倒し、地の果てまで戦いを断たれる。それによってこの地で崇められるようになる。ご自分が神であることを知るよう主はお命じになる。

【背景】

【釈義】
9~12節 戦いを断たれる主なる神
 詩人は9節で主なる神が与えて下さった勝利を「仰ぎ見」るよう招いている。9節後半の関係詞節による「主はこの地を圧倒される」と、10節の4つの連続的動作「戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」は、どれも主なる神の御業である。9節前半の「主の成し遂げられること」とは、敵の「地に荒廃をもたら」(新改訳)すことで戦いを終結させ、イスラエルに平和を与えて下さることである。
 更に詩人は、主なる神がイスラエルのためだけに戦いを止めさせるのではなく、「地の果てまで」(10節)平和を与えて下さると語る。主なる神は全ての国々とその王をも統べ治められる。「弓」と「槍」は戦争の武器である。これらを砕き、折るとは、敵の全ての力を崩壊させるということである。戦闘において防御力を発揮する「盾」も火で焼き払われる。このように、主なる神は戦いの武器を全て失わせられる。それによって、主なる神が全ての国々を統治する真の王であられ、全世界に平和が臨むようにされることを詩人は告げる。主なる神はイスラエルだけでなく、全世界の避け所となられる。
 それ故、詩人は続く11節で「国々にあがめられ、この地であがめられる」に相応しい方であると主なる神をほめたたえている。また、詩人は、主なる神の言葉を引用する形で、人々にどのように行動すべきかを告げている。「捨てよ」という命令は、「中止する」や「捨てる」という意味を持った動詞רָפָה [raphah]のヒフィル態(使役)命令形によって記されておいる。悪者は、私利私欲や政治的欲望によって戦争をし、命を奪おうとする。主なる神は彼らに、ご自分の御力と主権を認め、今企てていることを直ちに止めるよう命じられる。また、イスラエルと全世界に対し、9~10節で描写しているように、ご自分が主なる神であることを知るよう命じられる。「あがめられ」を2度繰り返すことで、全世界で主なる神が崇められるということが必ず成就されることが強調されている。
 12節では8節と全く同じ言葉が繰り返されている。それによって、主なる神が「万軍の主」であり、私達の避け所であり、「砦の塔」であり、「わたしたちと共にいます」ことを明らかにしている。

【黙想】
 イスラエルは多くの国の脅威に絶えず晒されていた。大きな帝国の侵略を受け、風前の灯のような危機に陥ったこともあった。しかし、主なる神が立ち上がって御声を出されると、どのような敵も退散した(7節)。詩人はそのことを思い出しながら、「万軍の主はわたしたちと共にいます」(8節、12節)と告白する。この世では主なる神に逆らう者が騒ぎ立てる。それに信仰が呑み込まれてしまいそうになる時もある。しかし、主なる神の御許に避けるならば、暴風の中でも安全で平穏である。

【適用】
 この世は霊的には戦場のようである。罪の誘惑と悪霊の休みなき攻撃は、私達を疲れさせ、失望させる。しかし、そのような私達のために、主なる神は避け所となり、砦となって下さる。世のいかなる力も権勢も、どれほど立派な人も、脆く崩れ、朽ちていき、不安定なので、頼りには出来ない。しかし、主なる神は私達に全き平安を与えて下さる。この世のものがどれほど強く見え、誘惑が大きくても、主なる神はそれらに勝利される。イエス・キリストは、苦しみの中で生きていた民に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)と語られた。休みなき戦場のような人生において、主なる神を避け所としよう。主なる神は私達を守り、私達に勝利を与えて下さる。

【祈り】
 この世にあってどのような苦難が押し迫ろうとも決して恐れず、私達の避け所、私達の砦となって下さる主なる神を信頼して従うことが出来ますように。いと高き主が成し遂げられることを仰ぎ見させて下さい。