Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編49編13~21節

聖書の黙想と適用 詩編49編13~21節(新共同訳 旧約pp.882-883)

(1) 私達を贖って下さる主なる神(13~16節)

 詩人は「自分の力に頼る者の道」、「自分の口の言葉に満足する者の行く末」(14節)について教えている。彼らは「陰府に置かれた羊の群れ」のようになり、「死が彼らを飼う」羊飼いとなる(15節)。富と名誉を求めて生きてきた者も、最終的には死によって支配され、陰府が住む所となる。
 私達は自分で死の力に勝つことは出来ない。富も名誉も私達の寿命を延ばすことは出来ない。人生には限りがあり、人間はいつまでも「栄華のうちにとどまることはできない」(13節)。死の問題を解決出来ないという点においては、人間は「屠られる獣」(13節)と変わらない。
 死に打ち勝つことが出来るのは、主なる神だけである。死の問題は、命の根源であられる主なる神が「わたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(16節)ことによって初めて解決の道が開かれる。御子イエス・キリストは死に打ち勝って復活された。どのような人も死を避けることは出来ないが、主なる神はイエス・キリストにおいて私達を贖って下さる。これだけが私達の救われる唯一の道である。

(2) 死ぬ時は何一つ携えていくことが出来ない人間(17~21節)

「人に富が増し、その家に名誉が加わる」(17節)のを見る時、私達は、それが人間としての幸いであり、またその華やかさが永遠に続くかのように考えてしまう。そのため、彼らを恐れたり、彼らの前で委縮してしまう。
 しかし、そのような人を前にしても「あなたは恐れることはない」(17節)と詩人は言う。華やかな人生を送っているように見える人も、「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができ」(18節)ないからである。
「命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえ」(19節)るような人であっても、最後は陰府に下り、「父祖の列に帰」(20節)ることになる。その時、この世の富と名誉は全て手放さなければならない。どれほどの栄華を味わったとしても、死ねば終わりである。そして、私達の人生は短い。だから、私達はそのような人を見て羨む必要も妬む必要もない。
 人間は「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)尊い存在であるが、真理を悟ることが出来なければ、「屠られる獣」と大差ないという事実を、詩人はもう一度告げる(21節)。人生は過程も結末も重要である。私達の目と心を死に打ち勝たれたイエス・キリストに向ける時、私達は過程においても結末においても希望を持って生きていくことが出来る。そして、主なる神をほめたたえ、喜びと感謝をもって生きることが出来る。