Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書1章1~9節

聖書研究 イザヤ書1章1~9節(新共同訳 旧約p.1061)

【概要】
「ユダとエルサレムについて」「アモツの子イザヤ」が「見た幻」である。主なる神が「育てて大きくした」民が主なる神に「背を向け」、主なる神を侮り、背きを重ねた。国は「荒廃し」、「町々は焼き払われ」るが、「娘シオン」は残される。万軍の主が「わずかでも生存者を残されなかったなら」、ソドムとゴモラのようになっていただろう。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】
(1) 主なる神の嘆き(1~4節)

 聖徒が最優先にすべきことは、主なる神と親しく語り合い、親密さを深めていくことである。主なる神は、ご自分に「背いた」イスラエルの民のことを天と地の前で嘆き(2節)、彼らの実状を訴えられた。主なる神は親のような愛情をもってイスラエルを育てられた(2節)。しかし彼らは、そのような父なる神の愛を悟らず、背を向けて離れ去った(4節)。「牛」や「ろば」などの家畜でさえ「飼い主」を覚えて従うのに(3節)、イスラエルは主なる神の愛に目も向けず、主人であり、父であられる神に逆らう恩知らずな態度を取った。罪の本質は、主なる神から離れ、主なる神を侮って生きることである。

(2) 反逆によって荒れ果てた町(5~9節)

 主なる神を捨てた人生は衰退していくしかない。主なる神から離れ去り、「背きを重ね」た南ユダは、主なる神の懲らしめを受け(5節)、見るも無残な状況であった。彼らはそれでも悔い改めないので、主なる神の慰めを受けず、癒されない(6節)。彼らが住んでいた「町々は焼き払われ」、「田畑の実り」は「異国の民」に奪われ(7節)、エルサレムの町だけが辛うじて残った(8節)。罪によって惨たらしい裁きを受けたソドムやゴモラとは違い、主なる神は、ユダを完全には滅ぼされず、信仰の種となる人々を僅かに残しておかれた(9節)。これは、ご自分の民の回復を願い、人類の贖罪史を繋いでいこうとされる主なる神の憐れみと恵みを表している。主なる神は「わたしたちのために」(9節)悔い改めの機会を残して下さっている。まだ手遅れではない。父なる神は、愛の鞭を用いながらも、私達の「打ち傷、鞭のあと、生傷」(6節)に触れて、癒すことを願っておられる。この方に立ち返るなら、希望がある。

【適用】
1. イスラエルは主なる神の愛にどのように反応したか。最近父なる神を悲しませるような態度を取ったことはないか、振り返ってみよう。

2. 主なる神から離れたイスラエルはどのような姿になったか。私達も主なる神の恵みによって日々生かされ、罪から救い出されたことを忘れ、それを当然のように思い、世に埋没してはいないか。主なる神の恵みを日々御言葉に向かって思い出そう。

祈り
 主なる神が御言葉をもって戒められた時、私がすぐに立ち返らなかったために、主は愛の鞭を取られたのだと悟りました。大いなる愛をもって育てて下さった父に逆らう罪人でしたが、今父のもとに戻ります。砕かれた私の魂を受け入れ、恵みで包んで下さい。