Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章10~20節

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章10~20節(新共同訳 旧約pp.1061-1062)

(1) 悪を行うことをやめよ(10~17節)

 心の込もっていない義務的な孝行を喜ぶ親はいない。同様に、形式的な信仰の行いが主なる神に喜ばれることはない。イスラエルは、「ソドムの支配者」「ゴモラの民」のように、「主の言葉」「神の教え」に耳を傾けなかった(10節)。「雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた」(11節)、「むなしい献げ物を再び持って来るな」(13節)、「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない」(14節)といった主なる神の言葉から、彼らの罪悪がどれほど主なる神に忌み嫌われるものであったかが分かる。
 その一方で、主なる神はイスラエルの民を咎められるだけでなく、彼らに解決策も示された。それは彼らが自らの身を清くし、「悪を行うことをやめ」(16節)、「善を行うことを学」(17節)ぶことであった。具体的には「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護」(17節)することを、主なる神は求められた。主なる神の要求は常に具体的である。

(2) 進んで従うか、頑なに背くか(18~20節)

 主なる神はイスラエルに「論じ合おうではないか」(18節)と呼びかけられた。この言葉は互いに頭を突き合わせて問題解決の糸口を見つけようという意味である。主なる神は、イスラエルの民が自分の罪を認め、赦しを求めるなら、「罪が緋のようでも雪のように白く」(18節)して下さる。悔い改める罪人に赦しを与えて下さることは、主なる神の憐れみと忍耐の深さを表している。
 続いて、主なる神は、「大地の実りを食べることができる」(19節)祝福の道と、「剣の餌食になる」(20節)災いの道を示され、2つのうちの1つを選ぶようイスラエルの民に求められた。主なる神の言葉に「進んで従うなら」(19節)祝福があり、「かたくなに背くなら」(20節)災いが臨む。私達も日々このどちらかを選択しなければならない。その結果は祝福にもなり、災いにもなる。