Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章21~31節

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章21~31節(新共同訳 旧約pp.1062-1063)

(1) 不義に満ちたイスラエル(21~23節)

 聖書において主なる神とその民の関係は夫婦の関係として表されている。結婚した夫婦が守るべき最も重要な原則は「忠実」(21節)であることである。かつて主なる神とイスラエルの民の関係は愛に満ちていた。
 しかし、ここで主なる神はイスラエルに向かって「どうして遊女になってしまったのか」(21節)と叫ばれている。イスラエルはどうしてそのような遊女になってしまったのだろうか。主なる神の愛を忘れ、その裁きを忘れたからである。イスラエルが遊女になってしまったことで、その関係に亀裂が入った。
 また、主なる神に「忠実であった」かつてのイスラエルには「公平が満ち、正義が宿っていた」(21節)。しかし、今は不義を愛する「人殺しばかり」になってしまった(21節)。不義を憎んでいた姿はどこにも見られず、「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要」(23節)した。また、「孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられ」ることがなかった。
 主なる神の愛を覚え、主なる神の裁きを恐れたなら、彼らは信仰を守り続けただろう。妻である神の民が、主なる神のもとに立ち帰り、従うことが、正義と公平を回復出来る唯一の道であった。

(2) 裁きを通しての贖い(24~31節)

 主なる神がイスラエルを不義の故に裁かれる時、彼らはどうなるだろうか。主なる神はご自分の民だからといって、裁きを退けては下さらない。
 その一方で、ご自分の民を永遠の怒りと裁きに引き渡されるのでもない。主なる神は裁きを通してご自分の民を「初めのとき」(26節)の姿へと回復することを願われる。ここにイスラエルの民と私達の希望がある。主なる神は裁きを行うことによってイスラエルの民から「不純なものをことごとく取り去る」(25節)と言われる。主なる神の裁きを受けて「悔い改める」(27節)時、イスラエルは再び「正義の都/忠実な町」(26節)となる。
 しかし、「背く者と罪人は共に打ち砕かれ」、「断たれる」(28節)。最初の状態に立ち返るか、主なる神に逆らったまま滅びるかは私達の悔い改めにかかっている。