Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章1~11節

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章1~11節(新共同訳 旧約pp.1063-1064)

(1) 道を示される主なる神(1~4節)

 イザヤは主なる神が全世界の支配者であられることを宣言する(2節)。主なる神は異邦の神々のように限界のある存在ではない。神の国イスラエルの民にだけ開かれているのではなく、全人類に開かれている(2~3節)。その結果、「終わりの日」(2節)には、諸国の民が「こぞって大河のように」主の神殿の山に向かい(2節)、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」(3節)と声を掛け合うようになる。
 では、神の国の民はどのように生きるべきだろうか。主なる神が示される道を歩むこと、即ち、「主の教え」「御言葉」に聴き従うことが求められている(3節)。そこには主なる神の癒しがあり、回復があり、約束がある。そして、主なる神が「国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」(4節)ことによって、国々はやがて「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌」とし、「国は国に向かって剣を上げ」なくなる(4節)。「もはや戦うことを学ばな」(4節)くなる。
 主なる神の言葉を学ぶことは主なる神が喜ばれる生き方を実践するための必須条件である。イスラエルの民が主なる神から戒めを受けたのは、主なる神の言葉を知らなかったからではない。知っていながら従わなかったからである。教会の中心も、人間関係やプログラムではなく、主なる神の言葉に従って生きることである。主なる神は悔い改める者を待っておられる。

(2) 主の光の中を歩もう(5~11節)

 神の民は暗闇の業を捨て、主の光の中を歩まなければならない(5節)。イザヤは、主なる神がユダの民を捨てられた理由について語る前に(6節)、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(5節)と呼びかけた。主の光の中を歩むとは、主なる神の言葉に従って生きることである。
 しかし、ユダの民は、主なる神の言葉よりもこの世のやり方に従い、「金と銀」「財宝」「軍馬」「戦車」といった目に見えるものを追い求めた(7節)。異邦人のように、「占い師や魔術師」に縋り、近隣諸国との同盟に依り頼んだ(6節)。そして、人が造った偶像にひれ伏した(8節)。
 そのため、イザヤは「彼らをお赦しにならぬように」(9節)と主なる神に求めた。この世の欲望を追求しながら、クリスチャンであると自称する人々は今日も数多くいる。この世の何ものも主なる神とは比べられないことを知り、主の光の中を歩むことが、キリスト者の生きる道である。