Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章12~22節

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章12~22節(新共同訳 旧約p.1064)

(1) 高ぶる者は低くされる(12~21節)

 主なる神は「誇る者と傲慢な者」(12節)を嫌われる。にもかかわらず、イスラエルの民は主なる神を忘れ、高慢になり、その言葉を心に留めなかった。
 イスラエルの民が主なる神の御前で高ぶる時、どうなるだろうか。主なる神の言葉を無視した彼らには「万軍の主の日が臨」(12節)み、彼らは「卑しめられ」、「低くされ」る(12、17節)。主なる神の裁きは「主の恐るべき御顔と威光の輝きとを避けて」「岩の洞穴、地の中に入るがよい」「岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい」(19節、21節)と言われるほど恐ろしいものであった。
 主の日はユダの民をきよめ、回復させるために必要不可欠なものであった。その裁きを通して、「主はただひとり、高く上げられ」(17節)、「偶像はことごとく滅びる」(18節)。

(2) 人間に頼るのをやめよ(22節)

 人間は互いに支え合い、愛し合うように創造された。それ故、誰かに助けを求めることは罪ではなく、或る程度必要である。しかし、人に依存することは出来ない。人間は「鼻で息をしているだけの者」、即ち有限で無力な存在に過ぎず、完全に頼ることの出来る対象ではないからである。にもかかわらず、イスラエルの民は主なる神に依り頼む代わりに、欠けだらけで移ろい易い人間、或いは偶像に依存した。
 私達が絶対的に信頼すべき対象は、全能の主なる神ただおひとりである。真の希望は主なる神だけである。主なる神を見上げて生きる人は決して絶望で終わることはない。主なる神だけに頼って生きる時、私達は命と平安を得ることが出来る。私達の目を主なる神に向けよう。