Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章1~12節

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章1~12節(新共同訳 旧約p.1065)

(1) 頼るべき対象を誤ったイスラエル(1~7節)

 偶像礼拝とは主なる神以外の何かを主なる神以上に頼りにすることである。ユダの民は主なる神よりもパンや水といった生活の必需品を頼りにした(1節)。また、彼らは主なる神よりも「勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老/五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師」(2~3節)を信頼した。
 主なる神は、ご自分が万物の真の所有者であること、自分こそが真に「支えとなり/頼みとなる者」であることを教えるため、ユダの民が拠り所にしていたものを全て「取り去」ると告げられた(1節、3節)。
 その結果、ユダに混沌がもたらされる。経験のない未熟な「若者」が「支配者」として立てられ、「気まま」に「国を治めるようになる」(4節)。また、「民は隣人どうしで虐げ合う」(5節)ようになる。自分のことしか関心のない者が国を統治し、何が起こっても誰も責任を取らないため、国は大混乱に陥る。主なる神よりも人やこの世のものに依り頼むことは悲惨な結果をもたらす。

(2) イスラエルの行いの実(8~12節)

 主なる神は私達の言葉と行いを全て見ておられる。ユダの民は「舌と行いをもって主に敵対」(8節)するという罪を犯した。それに対し、主なる神は「災いだ、彼らは悪の報いを受ける」(9節)と宣告された。
 のみならず、主なる神の目は私達の心をも見通されている。ユダの民は、その「表情」によって「ソドム」の人々のような「罪を表し」ていると主なる神は言われた(9節)。この方の御前では、罪の行為だけでなく、動機までもが余す所なく顕わになる。心の中の思いが顔に表れるように、私達の中の隠された罪も必ず顕わになる。
 その上で、主なる神はそれらに基づいて私達に報いを与えられる。「主に従う者」にもたらされる「幸い」も(10節)、「主に逆らう悪人」にもたらされる「災い」も(11節)、私達の「行いの実」(10節)である。キリスト者は、「主に従う者」として、美しく、尊い実を結ばなければならない。これこそ主なる神が私達に望まれることである。