Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書4章1~6節

聖書の黙想と適用 イザヤ書4章1~6節(新共同訳 旧約p.1066)

(1) 裁きの日に恥を見る女(1節)

 エルサレムは主なる神の厳しい裁きによって荒れ果て、残された者は大きな災いと苦難に遭う。特に女はひどい苦しみと恥を味わう。
 男がバビロンの軍隊によって「剣に倒れ」(25節)るため、女は結婚相手を見つけることが出来なくなる。ユダの社会において夫がいないことは大きな恥であった。夫がいなければ、子を生むことが出来なかったからである。そのため、ユダに裁きが臨んだ時、「七人の女が一人の男」に縋り付き、「どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と哀願することになる。
 主なる神を蔑み、「高慢」(16節)に振る舞う者は、裁きの日に恥を見ることになる。そのような女の姿は、高慢が荒廃の前ぶれであることを証明する。

(2) エルサレムの将来の栄光(2~6節)

 主なる神は怒りの鞭をもってイスラエルの民を懲らしめられる。しかし、彼らを完全には滅ぼされない。主なる神の裁きの目的はイスラエルの破滅ではなく、回復だからである。
 このような主なる神の救いの計画が「主の若枝」(2節)として表れた。主なる神はイエス・キリストダビデの子孫としてこの地に送られる。この方は、イスラエルの民を「聖なる者」、「命を得る者」とし(3節)、また「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」彼らの汚れを洗われる(4節)。こうして彼らは患難と苦痛から抜け出し、新しい希望を持つようになる。
 父が子供を永遠に捨てることがないように、主なる神もご自身の民の背きに対して永遠に呪いと裁きで報いることはなさらない。私達は思いがけない事故や病気、試練によって信仰と希望を失いそうになることがある。しかし、主なる神の怒りは寧ろ私達に大きな希望と慰めと与える。主なる神による回復と救いが約束されているからである。