Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書9章7~20節

聖書の黙想と適用 イザヤ書9章7~20節(新共同訳 旧約pp.1074-1075)

(1) 悔い改めない北イスラエル(7~11節)

 主なる神の裁きを受けても悔い改めないことは、実に愚かなことである。ユダのために預言したイザヤは、北イスラエルに対する審判を預言した(7節)。
 北イスラエルの民は、主なる神の御前で自らを誇り、心が驕っていた(8節)。そのため、悔い改めを迫られても、彼らは「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう」(9節)と考え、その戒めを無視した。
 これに対し、主なる神は、北イスラエルを打つため、「東から」「アラム」を、「西から」「ペリシテ」を起こされた(11節)。しかし、「主の怒りはやまず/御手は伸ばされたまま」(11節)であった。北イスラエルが頑なであり続けたからである。主なる神は悔い改めない者に対して更に大きな裁きを備えられる。

(2) 止まない主なる神の怒り(12~20節)

 主なる神に打たれたにもかかわらず、北イスラエルの民は「自分たちを打った方に立ち帰らず/万軍の主を求めようとしなかった」(12節)。
 そのため、主なる神は、「長老や尊敬される者」、「偽りを教える者、預言者」(14節)といった指導者を「一日のうちに断たれた」(13節)。「若者たち」や「みなしごややもめすらも憐れまれ」なかった(16節)。「民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語」(16節)ったからである。
 また、「万軍の主の燃える怒り」は、北イスラエルの地を焼き、民の悪を完全に滅ぼしてしまう(18節)。民は飢えの余り、「自分の同胞の肉を食らう」(19節)までになる。それでも、「主の怒りはやまず/御手は伸ばされたまま」(20節)であった。「民を導くべき者」が「迷わす者となり」、「導かれる者は、惑わされる者とな」(15節)る時、その罪の故に主なる神の怒りは止まない。
 私達にも悔い改めるべき罪がある。にもかかわらず、私達は自分がどこまでも正しいと思ってしまう。そして、主なる神が苦難を通して私達を正しておられるにもかかわらず、高慢の故にそのことに気付かない。そればかりか、苦難を身に覚えのないもののように考えてしまう。私達には自分の罪を正しく見つめることの出来る目が必要である。それによって私達は主なる神が望まれる姿へと変えられる。