Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書10章12~23節

聖書の黙想と適用 イザヤ書10章12~23節(新共同訳 旧約pp.1076-1077)

(1) アッシリアに対する裁き(12~19節)

 主なる神がアッシリアを用いてユダを裁かれたのは、彼らが正しかったからではない。彼らを通して御心を行うためであった。「シオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就され」た後、主なる神は「アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」(12節)。
 にもかかわらず、アッシリアの王は「自分の手の力によって」、「自分の知恵によって」幾つものの国を征服したと誇った(13~14節)。アッシリアの王の高ぶりについて、主なる神は「斧がそれを振るう者に対して自分を誇り/のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶる」(15節)ようなものであると言われた。そして、「イスラエルの光である方」、「聖なる方」であられる主なる神が火となり、炎となり、「茨とおどろ」に過ぎないアッシリアを「一日のうちに」「焼き尽くされる」と宣告した(17節)。
 主なる神が受けられるべき栄光を、他の何ものも横取りすることは出来ない。主なる神の御前ではいかなる被造物もはかない霧のようなものに過ぎない。

(2) 残りの者の帰還(20~23節)

 イザヤは、主なる神のご計画が全て成就された「その日」には、「イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者」(20節)が、捕虜の生活から「帰って来る」(21節)ことを預言した。「その日」に選ばれた「残りの者」は、「再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る」(20節)ようになる。
 主なる神がご自分の御心を行われる時、「全世界のただ中で」(23節)「正義がみなぎ」(22節)り、民の多くは滅びる。しかし、主なる神に真実に頼る人々の将来は祝福される。「残りの者」は身分などによって決まるのではない。大きな苦難や逆境の中でも「主に真実をもって頼る」者が選ばれる。
 試練は私達の信仰を試すだけでなく、主なる神に対する私達の確信を強くする。苦難には私達を本質的なものに戻すという面もある。激しい試みに遭う時、私達は主なる神への祈りと信頼、静かに主なる神を待つことへと立ち帰らされる。そして、今自分に起こっていることが偶然ではなく、主なる神のご計画と目的の中にあることを想起させられる。