Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書11章1~16節

聖書の黙想と適用 イザヤ書11章1~16節(新共同訳 旧約pp.1078-1079)

(1) 平和の王(1~9節)

 メシアが来られれば創造の秩序が回復され、平和の世となる。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育」(1節)つという言葉は、メシアがダビデの子孫としてお生まれになることを指している。
 メシアの上には「主の霊」、即ち「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」が「とどま」っており(2節)、「彼は主を畏れ敬う霊に満たされ」(3節)ている。メシアは「正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯び」(5節)、「目に見えるところによって裁きを行」(3節)うことはなく、世を正義と真実によって治められる。「その口の鞭をもって地を打ち」とは、地上に秩序を立てるために命令を下すことを、「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」とは、悪人を裁き、「この地の貧しい人を公平に弁護する」ことを意味する(4節)。
 メシアが世を治められる時、敵意、恨み、妬み、残酷な行為が消え、完全な平和の世となる。狼が「小羊と共に宿」(6節)ったり、乳飲み子が「毒蛇の穴に戯れ」(8節)ても、主なる神の「聖なる山においては何ものも害を加え」(9節)ることはない。真の平和の源はただ主なる神おひとりである。

(2) 帰還と救い(10~16節)

 主なる神が臨在される場所には主の栄光が臨む。「その日が来れば」、「エッサイの根」が「すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う」ようになる(10節)。
 また、「その日が来れば」、主なる神は、「アッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた」「御自分の民の残りの者」を(11節)、メシアの旗印の下に「地の四方の果てから」集められる(12節)。かつて主なる神は、イスラエルが「エジプトの地から上った日に」(16節)、「エジプトの海の入り江を干上がらせ」、彼らが「サンダルのまま渡れるようにされた」(15節)。同じように、主なる神は「アッシリアに残されていたこの民の残りの者にも、広い道を備えられる」(16節)。更に、その日には北のイスラエルと南のユダが妬んだり、敵対することもなくなる(13節)。
 メシアは諸国の民がご自分に従い、イスラエルが本来の姿を取り戻すために来られる。「その日が来れば」、主なる神は悪に勝利され、神の民は神の国へと集められていく。